なぜ、仏典以外の引用があるのか?「一日一語147」
先日、居士林で開催されたGW宿泊坐禅会(学生坐禅会)の中での
円覚寺派管長・横田南嶺老師と参加者との質疑応答の一つをまとめてみました。
参加者: 2年ほど前から坐禅をしているのですが、一番不思議なのは、
禅の勉強をしているとよく、四書五経など(仏教以外のもの)の
出典が出てきます。それは、なぜなのですか?仏教なのだから、
仏典やお経の中から引用するならわかるけれど、儒教などの中から
引用をしています。禅というのは、はたして、宗教なのでしょうか?
老師: それは、一神教とは違って、特定の仏教とかいうものがあるという
のではない。真理をついている、これが真理だと思うものは、何でも
取り入れていく。
(真理を語るには)いろいろな表現の仕方がある。仏典の言葉で納得がいく
という人もいれば、中国の古典が良いという人もある。論語の言葉のように
日常的、実践的なもので納得がいくという人もある。
同じ一つの真理だと思います。それを様々な表現によってしていく。
こういう風に見る訳ですね。ですから、私らでも、いろいろなものを
読みます。いろいろなものを読んで、いろいろな言葉や表現を知っている。
そうすると、いろいろな人に対してそれだけ幅広く(対応できるように)
なっていく。ですから、日本の禅宗のお坊さんなどは、神道などをよく
勉強している。私らも、初めて坐禅をした時に、(その時の)老師が言われたことが
「坐禅をすると日本国中、八百万の神が心中に鎮座するのである」でした。
「おお!八百万の神が鎮座するのか!それはえらいもんだ!」と思った。
日本人だと「八百万の神が鎮座まします」というと、有り難いということに
なりますね。
ですから、(禅というのは)「こうでなきゃいけない!」という、とらわれがない。
うちの(宗教の)聖典を暗記していないと処罰するなんていう、そういう考えは、微塵もない。
良いものは何でも良いものとして(取り入れていく)。こういう見方をするんですね。