「正統と異端」 一日一語148
横田南嶺老師が昨日の僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
今日、我々の白隠禅(白隠禅師の系統の禅)というのは、
白隠慧鶴禅師ー峩山慈掉(がさんじとう)禅師ー隠山惟烟(いんざんいえん)禅師
ー太元孜元(たいげんしげん)禅師-儀山善来(ぎさんぜんらい)禅師
ー洪川宗温(こうせんそうおん)禅師と続き、我々、円覚寺の法系となる。
白隠の弟子に峩山慈掉がいますが、この峩山は、この今、講義をしている
『武渓集』をお作りになられた月船禅師のお弟子でした。
峩山は、月船の下で永田(今の横浜市)の宝林寺内の東輝庵に於いて
月船の下で修行をして、月船の後、東輝庵の第2世を継がれました。
ですから、月船の後継者が峩山であります。
それが、峩山が白隠の晩年に白隠東嶺のもとに修行に行ったものですから、
今日峩山は白隠の弟子であると言われます。それもそうですが
峩山が白隠のもとで修行をしたのは白隠晩年の話です。
月船の下で育ち、月船の東輝庵の後を継いだという事跡は
ほとんど、今では、紹介されることはありません。
私に言わしめれば、月船なかりせば、峩山が世に出ることはなく、
峩山なかりせば、白隠の系統は、東嶺、遂翁(ともに白隠の弟子)はいたけれど、
その東嶺、遂翁の系統は途絶えているので、今に伝わっていなかったのではないか。
月船の偈頌(宗旨をうたった漢詩)の見事さ、格調の高さ、それは、古月系と
言われますが、その当時(江戸時代中期)の日本の禅宗においては、
古月の系統がむしろ禅の主流でした。
この頃、白隠、白隠と強調をすることは、誠に結構なことであり、
それだけ、白隠のお力、力量というものが大きいものであったのでしょう。
しかしながら、禅の歴史というものを、正しく冷静に見るならば、
白隠は、本山に住することもなく、生涯を原の松蔭寺で過ごされた方です。
ただ、その地方で生きた泥臭さというべきか、そこが魅力です。
禅というものは、正統よりも異端といわれるくらいのものが出てくるところに、また、
新たなる魅力が湧いてくるのです。
こういう点で白隠禅というものの功績や魅力を正しく見ていかなければならない。
あたかも、この当時すなわち白隠が活躍した江戸時代後期から白隠禅が
禅の正統であって、それを代々、墨守して伝えていけば良いというだけの
ものの見方では、十分ではないと思っています。
ときには、異端といわれるようものも出てくる。禅というもの自体が、仏教学、仏教の歴史から
見れば、異端と言われるものでもありましょう。
唐代の禅僧方は、当時の仏教学の伝統から見れば、それこそ異端でしょう。
正統から外れたところで、田畑を耕したりしながら、何ものにもとらわれず自由なことを
言っている。が、逆にそういうところに魅力があるのです。
それが(その後)型にはまってしまって、唐の時代の禅僧方の活き活きとした
言葉が公案という型にはめられてしまって、形式に堕してしまう。すると
もはや、唐代の頃の禅の新鮮味は失われています。
日本では江戸時代に白隠が出て、今までの停滞していた伝統の型をぶち破ったのです。
しかし、以来、250年が経って、今やこの白隠禅が伝統の権威みたいになっていやしまいかと思います。
時に異端だと言われるようなものが出てくらいでなければ、果たして、本当の禅の
命脈は伝わっていかないのではないだろうかと危惧します。
歴史というものを正しく学び認識をするということは、今後、我々が
どのように道を歩んでいったらよいかとうことを教えてくれるものであります。
確かに、古月系(月船もこの系統)の禅、月船の禅、大用国師(円覚寺中興)の
禅の一流は、格調の高い見事な、五山文学の正統の流れを受け継ぎながら、
関山一流の禅風である己事究明ということも両立せしめた素晴らしいものでした。
しかしながら、それが形式に堕してしまった。逆に形式をあえてぶち破った白隠禅が
凌駕してしまった。ところが、今、その白隠禅が形骸化した公案の型に嵌まって
しまっているのではないかと思われます。
その型を破って出てくるものがまだ、出てきていない。
異端と言われるものこそが新しいものを生み出していく。そう思っています。
それには、まず、白隠禅を徹底的に学んで、学び尽くすこと。学び尽くした上で
更にこの白隠禅をも否定して乗り越えていく者が出てもらいたいと願います。
それが、新たな禅の歴史を作っていくことだと思っています。
{平成29年6月26日 武渓集提唱より}