コーネル大学生との禅問答③ 「一日一語146」
昨日、当ブログで紹介した円覚寺派管長・横田南嶺老師とコーネル大学生との
質疑応答の第3弾です。
学生: 一つは、禅というものは、あるがままの自分を受け入れると言います。
もう一つは、何とか修行、トレーニングしてより良い自分になろうとします。
それは、対立するものだと思いますか?
老師:ああ、融合してやっていく(のだ)。たいへん、良い質問でね。
禅の歴史というのは、その二つの考えが常に「このままでいいんだ」と
「いや、努力しなければ」という両方の相剋の繰り返しの歴史です。
私も長年この問題に悩み続けてきましたが、それが、あるおばあさんの話を
知って、二か月前に片付いた(解決した)。
七〇歳のあるおばあさんが言われた。その人は、中学を卒業して就職して
働くことになっていた。すると、その人のおばあさんにあたる人が
自分の孫に対して「これから、世の中で働いていく上で、人と比べてはいけない、
人をうらやましがってはいけない」とお説教をした。ところが、その隣にその人の
お祖父さんにあたる人がいて、「そんなことは、若い娘には無理だ。人をうらやましがる
のは当然だ」と言った。
さらにおばあさんが「これからは人に迷惑をかけてはいけない」とお説教をした。
すると、お祖父さんが「そんなことは無理だ。人間が生きるということは、人に
迷惑を掛けることだ」とこう言った。
そして、そう言われて、娘が五〇年働いて、自分はこのおじいさんとおばあさんと
二つの教えを聞いたから生きることができたと感じた。もし、おばあさんの教えだけを
聞いていれば、自分の人生は行き詰ってしまっていただろう。もし、おじいさんの
教えだけを聞いていたら、自堕落で、わがままで怠け者になっていただろう。
この二つの教えをバランスよく受け入れて自分は生きることができた。と。
この二つのバランスをとることを仏教では、中道という。
そこから、さらに大事な問題であるから、付け加えたい。私の最も
尊敬しているお坊さんで八八歳になる行者が言われた言葉があります。
「このままではダメだと努力しなければという気持ちとこれでいいんだ
という満足感とは、相反するように見えるけれど、これは同時である。」
歩くのを見ればわかる。「ここにとどまってはいけない」と思って
片方の足が前に出れば、もう片方の足は、「これでいいんだ」という風に
支えていてくれる。これが同時であるから、前に進んでいく。
難しいかもしれないけれど、仏教のたいへん大事な問題です。
私も長いことやってきて、二か月前にようやく気が付いた。皆さん方も
やがて、人生はバランスだと気が付くことがあることを願います。
(終了時間の八時半まであとわずかとなる)
あなた方といるとずっと話をしていたいと思うけれど、次の予定があるから、これで。
どうぞ、世界の問題をいくつか言われましたけれど、自分の心に争いを起こさない
ように、これだけをお願い致します。終わり!