コーネル大学生との禅問答② 「一日一語145」
昨日、当ブログで紹介した横田南嶺管長とコーネル大学生との質疑応答の第2弾です。
学生①: 人にはいろいろな人生があります。老師が禅を始められてから今に到る迄の人生を
振り返ってみるとどのような感じがありますか?
老師: 人生は偶々(たまたま)だね。今の偶々ここにいるんだ。
今の出会いも偶々であって、明日もどこに行くかわからない。
偶々、円覚寺にいて二十数年過ぎているだけで、(この先)どこに転ぶかは、
わからない。
学生②: 仏教のお寺も、大きいお寺から小さいお寺まで、また最近ではたくさんの空き寺があります。
老師: よく勉強しているんだね。空き寺(の問題)は、たいへんなのよ。
あなたは(住職してみては)どうだ?(一同笑い)
学生②:その中でも住職が、お寺の仕事やお寺以外の仕事をしながら、地域との一体を目指して、
また、近所の人と仲よくする為にお寺を開放したり、場所を貸したりして
地域コミニティーの一つとしてやっています。そういうことは、これから
必要だと思いますか?
老師: 必要でしょうね。禅というものは、これという生き方が決まっているわけでは
ありません。十人いれば、十人の禅の生き方がある。ただし、その人が禅が何であるか
わかっていればの話でありますが。すなわち、人はみな仏であるということが
わかって実践していれば、どこにいても、何をやっていても禅だわ。
昔、(円覚寺境内には)アジサイなんかなかった。たまさか、植えたら、
(大勢の)人が来るようになった。それで(参拝者から)300円(拝観志納金)もらって
何とか(寺院運営を)やっているんだ。それも、禅だ。(一同笑い)