「山の人、街の人」 一日一語134
<円覚寺境内・黄梅院にて マンサク>
横田南嶺老師が先日、居士林で行われたブラウン大学宿泊坐禅会での懇談会で
アメリカの大学生の質問に答えられたことをまとめてみました。
学生: いろいろな人、特に若い人は、物事を変えて様々な人を助けたいという
希望があります。けれども、どちらの方が良いのか、私は気になっています。
一人悟りを求めて清くなるか、あるいは、いろいろな人を助けていくのかです。
気になることは、自分一人で長い時間、瞑想することは、例えば、10年間、
一生懸命、人の為に働くことに対してどちらの方が良いかということです。
老師: それはね、世の中は多様性だ、ダイバーシティというんかい。
一生懸命、働く人もいれば、山に籠って瞑想をしている人もいていいんだと
思う。なぜならば、街でのボランティア活動によって救われる人もいれば、
その一方で、山で何年も瞑想している人に会って、初めて救われる人も
世の中にはいます。
だから、世の中にあるものは、必ず意味があるの。
そりゃ、山の中で瞑想をしている人には、10年に1人しか人が来ない
かもしれない。しかし、その10年に1人というその人の悩みや苦しみは、
街では解決できないものを持っている。
ひっょとして、山の瞑想者は、生涯に1人の人と接して、1人の人に
安らぎを与えて終わりかもしれない。しかしね、山にまで尋ねて来る人
というのは、その辺の本を読んでも、講演会の話を聴いても、
納得できないからだと思うの。
またね、わざわざ、山まで尋ねて行かなくても、山にそんな瞑想者がいると
知るだけでも、多くの人に安らぎを与えることもある。
ですから、街で一所懸命働くことも山で瞑想することも同等なんです。
そこで、わたしは、あなたたちに自分が好きな道を選んでくださいと
言いたいのです。
それで、自分自身が幸せになる、例えば、ボランティアをやって、
多くの人に飲み物や食べ物を与えて幸せになる、幸せだと思えば、
一生懸命それをやればいい。
しかし、そんな表面的なことでは、本当の幸せは来ない、もっと
深い心を究めた方がいいと自分で感じたら、山に行けばいい。
その両極端ではなくて、真ん中あたりがいいと、たまに土日は、
ボランティアをやって、他の日は坐禅をしようと思えば、それでも
いっこうに構わない。
最初に『金剛経』の話でしたように
「これですべては解決する!」という道はないんである!
ですから、あなたは、あなたに合った道を行くことが世の中の
幸せになるとこう思っています。
学生: そういったボランティアは、いっけん、世の中を幸せにし、
良い影響を与えているようですが、実際は、世の中に悪い結果に
なることもありますが、その場合はどうしますか?
老師: やめたらよい!(一同笑)
<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>