「実践 臨済の四喝」 一日一語135
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
「臨済の四喝」というものがあります。「有る時の一喝は、金剛王宝剣の如く、
有る時の一喝は、踞地(こじ)金毛の獅子の如く、有る時の一喝は、
探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は、一喝の用(ゆう)を作(な)さず。」
最初に出てくる金剛王宝剣というのは、金剛というダイヤモンドのような鋭い
あらゆる妄想、迷い、分別を断ち切る刀をいう。
これは、六祖恵能禅師が、坐禅ということを定義なさった「外(そと)一切
善悪の境界に於いて、心念起こらざる」のことを言います。
外の世界のものを断ち切る、外の情報を断ち切る。文字や言葉によって
得られたものを一度断ち切ることです。
金剛王宝剣の働きがなければなりません。世間のことばかりに振り回されては
いけない。
2番目の踞地(こじ)金毛の獅子とは、大地にうずくまっている獅子ライオンです。
これは、六祖恵能禅師の先ほどの言葉の続きである「内(うち)、自性を見て動ぜざる」の
ことです。
外の情報を断ち切って、自分自身の内を省みて、自分の本心・本性・仏心・仏性に
目覚めて。ドーンと坐っている働きです。これもなくては、いけません。
私たちが、僧堂で修行をするのは、外の情報を断ち切って、そして、
内、自性を見て動ぜず、仏心・仏性の尊いことを知って、外のことには
振り回されない、微動だにしないものを身につけてドン坐る。
ここで今度は、そこにとどまっていたのでは、臨済禅師の教えとはいえない。
今度は、ここから、為人、つまり、人の為に働いていく。これが3番目の探竿影草です。
探竿影草は他に様々な説があります。水の深さを測るとか、魚をとらえる罠であるとか、
あるいは、隠れ蓑を着るという意味もありますが、為人ということですと、
わざわざ世間に出ていき、悩み苦しんでいる人のところにいって、その人が
今、どういう問題で苦しんでいるのか、それを一つ一ついっしょになって
感じていく働きです。
もちろん、これには、金剛王宝剣の働きを体得して、踞地(こじ)金毛の獅子の働きが
十分に備わっていた上でなければ、為人の働きはできません。いっしょに迷い
おぼれ死んでしまうことになりかねません。
そして、最後の4番目は、「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」です。
それこそ、修行をしたとか、坐禅を長年したんだというようなふりを見せずに
ともに喜んだり、ともに悲しんだり、お互いに手を取り合って生きていく境界が
「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」ということでありましょう。
特段、お葬式の時に唱える一喝だけが、喝なのではありません。
我々、禅僧は修行の中で生涯をかけて、この四喝を日々、実践をしていくことが
大切であります。