「自分で何とかしなければならない」一日一語123
<円覚寺・妙香池 一昨日撮影>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
臨済下七世の慈明禅師(986-1039)は、師匠である汾陽禅師のところでの
修行の刻苦というものは、大変なものでありました。
慈明禅師が修行に入って、1年、2年と経っても、汾陽禅師一度も入室
(禅の問題に対する個人面談)を許してくれず、独参、参禅も一度も見てくれない。
それどころか、汾陽禅師は、この慈明禅師の顔を見るたびに罵る、または、
誹って追い出した。しかも、たまに、何か話をしてくれたとしても、仏教や禅の話は
全く教えてくれない。世間のつまらない話しか聞くことができなかった。
普通であれば、こんな師匠ではと思うかもしれません。慈明禅師は、2年間に及ぶ
そのような態度にたまりかねて、「どうして何も御教えにならないのですか?」と
いうと、汾陽禅師は、慈明禅師を杖でもって打ちのめして、追い出して、さらに
慈明禅師が何かを言おうとしたとき、その口をぐっと押さえつけて、その瞬間、
慈明禅師が悟ったのでした。
汾陽禅師は、なぜ、このような悪辣な手段をするのであるか?なぜ、親切に
教えないのでしょうか?
それは、教わって学んだものは、あまり身につかないからであります。
この本を読んだ方が良いと言われて読んだ本は、あまり身につかない。
慈明禅師は、徹底的に悪辣な手段をもって、この2年間、独参も許可されない、
禅の話も聞かされない、仏教のことも教えれない、ただ、毎日、罵れて、誹られて
追い出されている。
それは、「自分で何とかしなければならない」ということなのです。
自分で何かをつかまなければ、自分で何かを見つけなければならないという
ことです。これをやった方が良いとか、こうしてやった方が良いとかと言って
人から教わってやるものは、これは、本当の自分のものとはならない。
自分自身で、それこそ、草の根をかき分けてでも、これというものを
一つつかまなければなりません。これが臨済の宗風です。
なかなか、そこまでの願心、気力、根気がいたらないのが現状であります。
普段は、いろいろと教えることもありますが、どうぞ、この1週間の修行期間は、
自分自身で何をつかみとるかです。それには、自分自身がどこまで苦労をするか
どこまで自分の体力と気力の限界まで追い込むことができるかにかかって
おります。
(平成28年12月1日 隠山禅師亀鑑提唱 50:56)