「中道」 一日一語124
「夕陽に照らされて 白鹿洞横参道 本日撮影」
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
円覚寺開山・無学祖元禅師(1226年 – 1286年)が、中国(南宋)から日本に
渡って来て、日本の禅の修行の実情を見ると、知識や才覚があることが
大事にされて悟りを求めようとしていない。たとえ見どころのある者や
優れた器量を持っている者がいたとしても、禅の語録や仏教の経典などを
読むばかりで、表面だけのうわべを飾った文章を作ることに熱心である。
見性悟道の道を究めようとする暇がないように見受けられる。
それらの人たちは、迷いの内に一生を終えてしまい、誠に残念であると
無学祖元禅師は、その当時の日本の禅界の様子を表しています。
また、そのように少し才覚があり、出来が良さそうな者は、語録や経典を
見て文章を作ることばかりに打ち込んでいる類の人たちがいる一方で
別の一類の人たちがいるとも無学祖元禅師は、説いています。
別の一類というのは、道人と称するもので、本来ならば良い意味で
使うと「仏道を志す者」という意味なのですが、ところが、道人というのも
時代が下るにつれて、段々、悪い意味にも使われるようになり、
「うわべだけ仏道を求めるようなふりをしている中身のない者」や
「人からお布施だけをいただくような者」というような意味にもなりました。
無学祖元禅師の頃は、「道人」はそれほど悪い意味では定着はしていなかった
のですが、しかし、悪い意味での「道人」も少なからずいたようです。
無学祖元禅師の頃は、中国からお坊さんをお招きして教えをいただいていたから、
そういう方とお相手をするには、相当な勉強をしていなければ、中国語で対応
することはできない。それで、一生懸命、勉強だけする類の集団ができる。
その一方で、そういった勉強が出来ない者は、「閒坐(かんざ)」を
以って修行をしました。この「閒坐」という言葉も良い意味使われる場合と
悪い意味で使われる場合がありますが、この場合は、良い意味ではありません。
「ただ、じっと坐っていれば良い。それで良いのだ」と思って、仏道を
求めて自分自身向上をしていこうという気持ちがない。僧堂(専門修行道場)の
中にいると、食事は確保され、税金は免れ、労働も免除されるのを良いことに
ただ、坐って時を過ごしているという僧もいる。
無学祖元禅師は、こういう人たちの大半は、悟ることができないと
お説きになっています。
一生懸命に勉強をして言葉を覚えて文章を作ることばかりをしている類の人と
勉強はできないからとあきらめて、じっと坐っている者たちと分かれている。
真実の道を求める、見性悟道の者が少ないと。当時は、こういう状況に
あったようです。
(平成28年12月2日 仏光録提唱 19:57)