「今の禅宗の見直すべきところ」 一日一語119
<僧堂・万年門前>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
白隠禅師の弟子の一人である東嶺和尚は、「三乗の行門、皆大乗の輔翼なり」と
説かれています。仏教の発達というものは、今までの教えを否定して捨て去るもの
ではありません。今までのものに積み上げて積み上げてやってきたものです。
という立場を、東嶺和尚は、はっきり示しています。今までの説は間違いであった、
それを捨てよとは言わない。三乗の行門は、大乗の教えを学ぶための、空を飛ぶ助け
になる翼である、本体は、大乗門でありますが、大乗門だけでは、空を飛べない。
その空を飛ぶ為の翼となるのが、三乗(声聞、縁覚、菩薩)と呼ばれるような
修行をやることによって、大乗の教えがなお一層すぐれてくる。
声聞だ縁覚だといって切り捨てるものでないというのが、東嶺和尚の言わんと
するところで、そして、こういう考え方こそが仏教の発達にふさわしい教え
なんです。
禅は、優れたものであるからと言って、それでは、華厳経あたりは、一番の
最上乗の教えですから、だからと言って、法華経はいらない、声聞、縁覚や
上座部仏教なんかの教えは、あんなものやるものではないと切り捨て去るものでは、
決して、ありません。
肝腎なのは、今までの仏教の蓄積あります。上座部仏教でやってきた教えも
声聞で説かれてきた四諦の教えも四念処、四波羅蜜にしても、十二因縁にしても
それから、菩薩の六波羅蜜にしても、みな、これは、禅の教えを支えていく
基盤であり、土台です。
今日の禅宗の大きな問題点は、この土台の部分を捨ててしまっていることです。
ただ、僧堂(専門修行道場)に行って公案(禅の問題)だけをすれば、それでよい
思っている。
それ以外の教えは、劣ったものであるから必要ない。「不立文字」を良いことにして
経典なんか読んでいるから理屈っぽくなる、そんなもの、読まなくてよい。
「ムームー」やっていれば良いのだ・・・という風潮になりつつあるのが現状です。
東嶺和尚が言うように「三世の諸仏歴代の祖師も、皆三乗の行門より法成就には到るなり。」
です。この積み重ね、この土台が広いからこそ、しっかりしているからこそ、
深い禅の教えに到ることができるのです。
それを「一超直入如来地」という、これも尊いことではありますが、
それを強調するあまり、土台を捨てて、自分勝手になったり、わがままになったり
頑固、無知蒙昧になったりしてしまってはいないでしょうか。
禅の教えは、土台の上にあるという、土台を無視しては過ちを犯しかねない
危険がにあるということを自覚しなければなりません。
(平成28年11月23日 東嶺和尚法語 39:20)