菩薩 「一日一語120」
<仏日庵前から妙香池方面を眺める>
横田南嶺老師が大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
心の修行が進んでくると声聞、縁覚の上が菩薩、菩提薩埵(ぼだいさった)となります。
菩提は、悟り、薩埵は、命あるもので、菩提を求める者というのが本来の意味です。
そこで、もともとは、お釈迦様の前世、お釈迦様が悟りを開く前は、悟りを
求めて一生懸命、修行をしていた、これを菩薩と言いました。
お釈迦様の頃の仏教では、その意味だけです。
ただ、菩薩というのは、大乗仏教になると、別の意味になってきます。
上座部仏教では、悟りを求めて煩悩を断じて、阿羅漢になったら、
もう二度と迷いの世界に戻って来ることはない。それで終わりです。
ところが、大乗仏教になって、それではいけない、そこで終わりにしない、
まだ、この世の中で悩み苦しんでいる人々を救わなければならないと考え
本当の悟りとは、自分自身の迷い苦しみを断絶するだけではない、
この世の人たちのすべての苦しみを滅するまで続くのだと願ったのです。
これが大乗仏教の大きな転換点です。
上座部仏教の言えば、堕落と言われるかもしれませんが、我々、大乗の立場から
言えば、仏教の大きな発展であります。
大乗仏教では、観世音菩薩、地蔵菩薩・・・とたくさんの菩薩がございますが、
悟りを得てそれに安住して終わりではなく、なお、苦しむ衆生の為に姿を現して
救っていこうという無限の行願であります。それを表すために菩薩が説かれるように
なっていったのでした。
(平成28年11月22日 東嶺和尚法語提唱 30:10)