「心働けば、心疲れる」一日一語 108
横田南嶺老師が日曜坐禅会(5月29日)で提唱されたことをまとめてみました。
外のものに対して心が過剰に反応しないようにすることが肝腎です。
過剰に反応するとうことは、分別をする、分け隔てて、何かにとりすがって
しまったり、執着してしまったり、これが苦しみなのです。
苦しみを造り出しているものは、対象、つまり外の世界ではないという
ことをよく自分で観察をして、苦しみの様子をよく知ることが苦しみから
抜け出すことの大切な要因です。
人はどうしても、「環境が私を苦しめている」とか、「あの人が私を
苦しめている」と思いがちです。そう思わざるを得ない様子も私どもは
十分に理解ができるのでありますが、しかし、真実は、それに対する
自分の過剰な心の反応が自分自身を苦しめているのです。
そこで坐禅というのは、外の世界に心が振り回されないように
ただ、無心に、ただ、聞く。これが坐禅の要領です。そのように坐禅をして
初めて仏の世界、安らかな世界に通じていくことができるのです。
坐禅をすると初めは、手の組み方、足の組み方を教わると思います。
慣れてしまえば、それは用がないと思うのではなくして、やはり、
自分の体に意識を向けることが大切です。
日常の生活の働きというのは、外のものに、自分自身を観るようなことは
せずに、常に外の周りの世界ばかりを見て、分別して、何かにとりすがったり、
何かに嫌がったり、何かに執着したりと、心が働き詰めに働いています。
「心働けば、心疲れる」と言う昔の人の言葉があります。心があまり
働き過ぎてしまうと心は疲弊、疲れ切ってしまう。反応しないということも
時には、大事であります。
自分の身体の様子を観る。腰骨を立てる、ああ、なるほど、この辺に
仙骨、背骨があって、こういう風にまっすぐに立てて、まっすぐな様子を
意識して、右に傾かないように、左に傾かないように、肩の力を抜いて
おへその下に気力を込めるというように、一つ一つ意識を向けていくことに
よって、外の世界に振り回されないようにしていく。
それから、身体が調ってくると呼吸を観つめる。これも外のものに
執着をしないために自分の心を観つめる。呼吸を観つめながらも
自分の呼吸に執着してしまってもいけない。長ければ良い、短ければ
いけないとか、長いにこしたことはないけれど、これも分別、是非
善悪をつけてしまうと、苦しみを生んでしまう。だから、ただ、静かに
観つめる。
何も分け隔てることなく、何も善し悪しをつけることなく、ただ、静かに
観つめる。そうしてやっていくと、外の世界に心が働かないようにしても、
まだ、呼吸を観つめる自分と観つめられる自分が2つに分かれている。まだ、
分別がある。
それが何かのきっかけで一つになる。一枚になる。というのが一番の
安心のところなのです。そのようなところを目指していく。しかし、
目指そうとすると外れてしまうので難しいところであります。
手を組み、足を組み腰骨を立てて上体の力をすっと楽にして静かに
呼吸をしている様子をじっと観つめて外の世界に心が振り回されない
という無心をまず、学んでもらいたいと思います。