「あえて、一分の煩悩を断ぜず」 一日一語 107
<千手観音菩薩像>
横田南嶺老師が日曜坐禅会(6月19日)で提唱されたことをまとめてみました。
『伝心法要』に「菩薩に意生身(いしょうしん)有り」という言葉があります。
本当の仏様というのは、姿・形なく、目で見ることはできません。
しかし、菩薩というのは、一分の煩悩を断たずにいると申します。
一分の煩悩を残しているというのは、これには2つの意味がありまして、
一つは、仏という完全な悟りを目指しながら、、まだ、そこに到らないで
一分の煩悩を残しているという意味合いです。
もう一つは、仏になってしまえば、姿もなく形もなく、一切の心も
起きなくなってしまいます。それでは、人を救うことができない。
そこで、あえて一分の煩悩を残して抱える。
困っている人、苦しんでいる人を見ると、それに対して自分自身が
主体となって心を生じていく。そのことによって、意生身という
体を実現させていく。それが菩薩の姿であります。
大乗仏教の教えの実に素晴らしいところです。菩薩の姿というのは
無為、無作、仏の世界から、あえて一分の煩悩を断ぜずして、自分自身の
意に随って心を生じる、人々を救ってあげようという心を自ら主体となって
起こすわけです。
これが願心といったり、願いといったり、誓いといったり、あるいは、志と
いっていろいろな表現をするのですが、こういう心を、あえて、自分が主体と
なって生じて具体的に菩薩という姿・形で現れたのが、観音菩薩であり
普賢菩薩であり、文殊菩薩であります。これらは、深い仏教の教えを
根底に表しているのであります。