「罪障も尽く空(くう)である」 一日一語104
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』に「「文殊は剣によって瞿雲(ぐどん・・・お釈迦様)を殺さんとし」
という言葉があります。この言葉のもとは、『大宝積経』というお経の中に出てくる話から
きています。『大宝積経』の中では、500人の修行者たちが一所懸命に修行をして
一つの悟りを得る。
宿命通という自分の過去世がどういうものかわかるという悟りを得た。ところが
この過去世がわかったばかりに、人間の前世を見ると、実は、お互いひどいことも
やっている。人類の歴史というのは、お互い、殺し合いの歴史のようなものです。
遠い過去の間を見れば、様々な人を殺めたり、苦しめたりと、ずいぶん、
ひどいことを繰り返している。そんなことまで全部わかったとすると、今度は
罪の意識に苛まれてしまった。「自分は遠い過去においてこんなにひどいことを
繰り返してきたのであるのか」と500人の仏弟子が気落ちをしてしまった。
そこから先はもう修行が進まなくなってしまい、そこで、お釈迦様が
方便をもって、文殊菩薩に「自分をこの剣で斬れ」と命じました。
そこで、文殊菩薩もお釈迦様と話が通じているから、剣を振りかざして
お釈迦様に斬りかかる。そこで、お釈迦様は、説法をしました。
たとえ、この文殊菩薩が私を斬ったとしても、それこそ、
円覚寺開山・無学祖元禅師の臨剣の頌ではありませんが、「人空法また
空」(自分も空でありそとの世界のあなた方もまた空である)であります。
「珍重す 大元三尺の剣 電光影裏 春風を斬る」(あなたは、三尺もある
立派な長剣を振りかざしておられるけれども、それでたとえ私の首を
斬ったとしても、稲妻の光が春風を斬り裂くようなもので、ただ一瞬のことに
しぎじ後には何も残らないだろう)という頌と同じことでありまして、
たとえ、この文殊菩薩が刀をもってお釈迦様を斬ったとしても斬る側も
斬られる側も尽く空(くう)である、何の実体もありはしない。
なお、幻が幻を斬るようなものである。何の罪も咎も残りはしないのである。
とこうお釈迦様は、説いている。すると500人のお弟子たちも罪の
得るべきなし、罪障も尽く空(くう)であると気が付いて悟りを開くことが
出来たという話が『大宝積経』にあるのです。
「罪障も尽く空(くう)である」これを誤って解釈して
何をやってもよいというように思われても困ります。
しかし、この「罪障も尽く空(くう)である」は、今、現在において
よく噛みしめ、味わなくければならないところであろうかと思います。