空(くう) 一日一語103
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
空(くう)という言葉は、理解をするのに困難な仏教用語です。
よく実体がないと言います。たとえば、野菜のカブで言えば、これがカブである、
最初からカブである、未来永劫カブであり、それだけでカブになるというものは
ありません。
カブを植える人があり、土があり、水があり、お日様の光があり、様々なものに
よって、仮にカブというものが表れている。いや、むしろ、仮にカブと名をつけて
いるにすぎない。
本来は、カブでも何でもありはしない。大きな大自然の働きからそのような
ものが生まれてきている。
『金剛経』というお経は、空(くう)という言い方自体を使わずに
「世界は世界にあらず、ゆえに世界と名づく」と表現しています。
カブはカブではない、ゆえにカブと名付けるということです。
こういう言い方で空というものを表している。特定のものがある
わけではない。常に移り変わっている。何かの条件とそれ独自では
存在しえない。
常に他の条件と相助け合いながら、相依相関、相より相関わりながら、
その関係において成り立っている。こういうのが空という概念です。
あらゆるものは、様々な原因と縁が仮に結ばれたものである。
それが空であります。常に移り変わりもので実体があるわけではない
ということがわかります。
心もこういう空なるものの最たるものでありましょう。これが心であると
不変なるもの、固定しているもの、固いものがあるわけではない。
私たちのこの六根という感覚器官があって、そして、見えるもの、
聞こえるものがあって、それに感情というものが働いて、好き嫌い、
綺麗汚い、赤青などと働いて、仮に立ち表れているのが心です。
炎のようなものだと思います。燃えるものがあって、酸素があって
それに発火して、仮にポッと火が燃える。
心というものは、まさしく空(くう)であるから、その中には
本来、何も汚れも、煩悩として執着、まとい続けるものはありはしない。
一切の存在、森羅万象もこれまた、仮にそのような姿が立ち現われて
いるだけであって、何ら実体があるものではありません。
強いて言えば、丸ごと仏心という大きな鏡のようなものに
その表面に映ってる様々な映像にしか過ぎません。これが空(くう)という
ものです。
こういうことがわかれば、映像に振り回されなくなって、迷いの世界から
はるかに離れ、目で見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、あるいは、
心に映り出された映像に、もはや、心が振り回されることはない。この通り、
このまんま、坐っているまんまで、安らでいる様子、これを「無事」と言う。
どこかに行かなければ安心しないというのではない。ここにいる、
この一呼吸で安らいでいる様子を「無事」と言うのです。
迷いや分別は、皆、この映像のようなもの、あるいは、空に浮かんだ
雲のようなもの、鏡に映った像のようなもので、何ら振り回されることは
ないのです。