「迷人は方によるが故に迷う」 一日一語102
<升麻(しょうま)>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
迷いの世界、悟りの世界というのは、私たちの心が作り出したものです。
仏教の大事なところは、決して、「迷いの世界から悟りの世界へ行きましょう!」
という話ではなくして、迷いも悟りもないというところに気が付くことで
なくてはならいないものでありましょう。
『大乗起信論』に「迷人は方によるが故に迷う、もし、方を離れるれば、
迷うことあることなきが如し」という言葉があります。
非常に面白いたとえの言葉です。道に迷うということは、方角があるから
迷うのである。西に行こうと思いながら、東の方向に行ってしまうと
それから、西はどこやらと探さなければなりません。
どこどこに行きたいと住所や番地を探して見つからないと言って迷う。
しかし、その悟りということは、その番地や方角を明らかにして目的地に
至るということが悟りなのではない。「本来、方角も何もなかった!
住所も番地も、それは人間が勝手に作ったものに過ぎない。
「方を離れるれば、迷うことあることなきが如し」方角というものが
そもそもなければ、迷いようがない。どこどこへ行こうということすら
必要がない。「西に行かなければいけない」「東に行かなければいけない」
という一念を起こすから、迷いになる。
西も東もないということに気が付いて、ならば、ここにいるものが
このままで迷う必要がなくなる。仏も法も同じ道理であって
仏だ衆生だと一つの方角をつけてしまうものですから、どのように
仏の道に行ったら良いのかと言って私たちは迷う。
仏というのは、その仏に到る道筋をつけて達成をすることではありません。
そんな、区別をする必要はない。こう気が付いた時に一歩も動かずして
悟りの中にあったというのが本当のところでありましょう。
ただ、こういう教えは、前にも「無事」の話をしました時に言いましたが
最初から「どこにも行く必要はない!、何も求める必要はない!」とこう
言われても、これまた、取りつく暇もなくなってしまいます。
そこで、最初は、あえて方角を立てて、あえて、道筋を作って
一所懸命にそれに向かって努力して努力した結果、実は「どこにも
行っていなかった!」のであると気が付いてこそ、初めて、納得が
いった、解脱したということが言えるのでありましょう。