得失是非、一時に放却せよ。 「一日一語 90」
柏槇(びゃくしん)・・・氷点下の寒さの中でも凛とそびえたっています。
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
凡と聖、煩悩と菩提、生死と涅槃とその二つにとらわれ執着するから
迷いとなる。迷いを断ち切って悟りだけ得ればよい、煩悩を断ち切って
菩提だけ得ればよいというのも、これまた迷いです。
凡も聖も、煩悩も菩提も尽く断ち切って執着から離れなければ
なりません。自由自在に悟りの世界にも入ることができ、餓鬼畜生の
世界にも入ることができる。
入るというと距離があるように思われますが、端的には私たちの心が
一瞬のうちに毘盧遮那国土になってあらわれ、蓮華蔵世界となって
あらわれ、餓鬼畜生の世界にもなってしまう。
お互いあるのは、この唯一、一心のみであります。この一心は
迷い、執着がとければ、とらわれから離れれば一瞬のうちに
ここが蓮華蔵世界となり、一瞬のうちに私たちが毘盧遮那仏で
あります。
あるいは逆に目の前のことにとらわれていたり、外の世界に
執着したり、迷いだ悟りだととらわれを起こしたら、一瞬のうちに
餓鬼畜生の世界を現じてしまう。
しかし、そのような世界がどこかにあるのかとあちこちに尋ねて
行っても、そのような世界が生じたとか、なくなったというような
ことが見えることはない。ただ、仮に付けた名前があるだけで
本当にあるのは、お互いのこの一心のみであります。
この一心が迷いを離れている状態のことを毘盧遮那世界、
蓮華蔵世界と仮に名前をつけたに過ぎない。
この心がものにとらわれ、煩悩と菩提、生死と涅槃というような
執着にとらわれているから、迷い、執着という仮に名前をつけたに
すぎないのです。すべては幻であり、なんら実体実像があるものでは
ありません。
臨済禅師は「得失是非、一時に放却せよ。」と説いています。
得たの失っただの、良いだ悪いだ、
悟りは良い迷いには悪い、煩悩は嫌だ菩提が良い、
地獄は嫌だ極楽が良いというような得失是非の思いを一時に
放却、捨ててしまえ!であります。
今、ここで目の前で聴いているものは何ものか?それは活き活きとして
いたるところに浄土を実現していきもするし、あるいは、迷いの世界を
作り出していくものです。それがこのお互いの一心なのであります。