歴歴孤明 「一日一語 89」
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
臨済禅師が仰せになっているのは、動いている時はその動いて働いているもの、
坐っている時は坐っているもの、動いている時は一生懸命動いて働き、
坐っている時は一生懸命坐る、その時その時に於いて自由自在に働いている、
そのものを見て取らねばならないということです。
二つのものを比べて批判していたって何にもなりません。
厳しいが良い、いや、緩やかの方が良いや、警策で叩けばよい、
いや、放っておけばよいなどと二つに考えてあれこれ言い争いを
しているのが現実です。
しかし、その現象を見るのではなく、動いている時はその動いて
働いているものは何ものか?坐っている時はその坐っているものは
何ものか、動くときは一生懸命動く、坐る時は一生懸命坐る、
そのものは何ものか?を見て取らねばなりません。
その一つ一つのところに素晴らしい無位の真人が生きて働いている。
それに目覚めることが大事なのです。形やあらわれたものに
とらわれてしまってお互いに比べあい、あるいは、自分自身の中に
於いて「昔は良かった、今はかなわん」とか「これから先はもっと
良いことがあるだろう」とそのように二つに分けて考えても仕方が
ありません。
時は今、処は足元です。その時そのことに成りきって働きを
見て取らねばなりません。無位の真人がそれぞれにその瞬間その瞬間に
活き活きと働いている。歴歴孤明、はっきりとそれぞれ独自の光明を
放っている。
一生懸命掃除をしている時は、そこにはっきりと光輝いている。
一生懸命坐っている時は、そこに光り輝きがある。その素晴らしいもの、
無位の真人、働いいているもの、この歴歴孤明をはっきりさせる
ということが仏道であります。