一日一語 52 ~僧堂攝心編~
<黄葉と紅葉>
「古人刻苦光明 必ずや盛大なり」
この言葉は、白隠禅師が1日に何度も自ら唱え修行に励んだ言葉です。
人間は刻苦する、苦しむ、辛い思いをする、その分だけ、光輝くものが
得られるわけです。
どれだけ、この臘八大攝心において、苦労をしたか、辛い思いに耐えてきたか
ということが我々、禅の坊さんとしての値打ちとなる。
毎年、この臘八にあたって申し上げていることですが、私たちがいつも学んでいる
(読書会をしている)森信三先生は、次のことをおっしゃられています。
「人間の本当の値打ち、真価をはかる目安は二つあります。
第一は、その人の全知全能・自分のあらゆる気力能力を一瞬、かつ一点に
どれほど集中することができるかであります。
もう一点は、睡眠を切り詰めても精神の力によってどこまでそれを
乗り切ることができるかです。」
この言葉を見るたびに、まさしく我々の修行もその通りであると思うのです。
いろいろなことを考えたり思ったりする全知全能を気海丹田、おへその下の一点に
集中する。臘八のように一週間、横になることができなくても、気力によって
精神力によって乗り越えていくことができる。
森信三先生は、また、つぎのようなことも仰せになっています。
「坐禅を組んでいる間は、どんな坊さんもたいした違いはない。本当の値打ちは
坐禅を止めた時(坐禅以外の時)に表れる。坐禅の時間が終わったら「やれやれ」と
言ってあくびをして、用は済んだと思ってしまうのか、それとも、坐禅の時間が
終了しても、なお、一層、心を引き締めて(正念を)持続していくかです。
人間の違いは、その坐禅を終えた時に分かれ目が出てくる。」
さすがに森先生で私たちに坐禅についても本質をついている。同じ日程で
同じ修行をして、どうしてこんなに(個々に)差が出てくるのか。
坐禅をしているときだけでなく、経行(きんひん・・・禅堂の周りを歩く)、
抽解(ちゅうかい・・・坐禅と坐禅の合間の休憩)や東司(トイレ休憩)など
坐禅以外の時に、そこにどれだけ緊張感を持っていられるか、これがまた、
大事となります。
{平成27年12月1日 臘八大攝心初日 『隠山禅師亀鑑提唱』より}