一日一語 ⑮ ~攝心提唱編~
<僧堂 万年門前>
臨済録に「心外に法なし、内もまた不可得なり」という言葉があります。
また、朝比奈宗源老師は、「仏心以外に蟻のひげ一本もない」と仰せになっています。
こう悟るのが私たちの急務であります。
この心以外に何も特別なものはありはしない。仏と言うも祖師と言うも
みな一心の現れにしかすぎません。この心の内に何か立派な仏様でも鎮座して
いるかというとそういうわけでもありません。ありてあるものは、この仏心一つです。
この仏心は、いつ生まれるということもなく、いつ滅するというわけでもなく、
これ以上、浄らかになることもなく、これ以上穢れるという心配もありません。
いくら修行をしたからといってそれによって浄められるわけでもない。
だからといって、決して何の修行もする必要がないというわけでもありません。
坐禅をすることのねらいというのは、何時間坐禅をしたとか、どれだけ経典の言葉を
覚えたとか、どれだけ語録を読んだとか、はたまた、どれだけ公案(禅の問題)を
解いたとかいうことではなくして、この仏心一つに目覚めているかどうかが
肝心かなめなところであります。
このことをおろそかにしていくら坐った長さを誇ったり、修行の様々な功績を
誇ったところでそれは、無意味であると臨済禅師は教えています。
人々、親の生みつけたもうたものは、不生不滅の仏心一つという言葉があります。
仏心には、内、外という隔てはありません。迷い、悟りという隔てもありません。
仏だ、衆生だというその違いすらない、全く無差別であり、全く平等で
何の言葉でも表現できない、思いはかることもできません。
しかし、その仏心が、(私たちの体を通して)今こうして話を聞いている。
この仏心が今、こうして立ってる。今、仏心がこうして歩いている。
そこに目覚めていくことが大切であります。
{平成27年10月26日 入制大攝心5日目 南嶺老師 臨済録提唱より}