一日一語 ⑭ ~攝心提唱編~
<野ボタン 法堂跡にて>
迷いの世界と言いますが、何も迷いの世界なるものがあって、そこに
私が生まれて何やら苦しめられているように思うかもしれませんが
そうではありません。
自分の心を働きを観(み)つめる修行をすれば、外の世界があって
そこに私が生まれて苦しめられているのではないということがはっきりと
わかります。
正しくは、私の心が迷いの世界を作り出しているのです。
映画のスクリーンに映画を上映するがごとく、私の心がその映像を
映し出しているのです。
「この迷いの世界の作り主は何であるかを求め、ついにその作り主を見出した」
というのがお釈迦様が悟りを開いたときの言葉です。この迷いの世界の作り主は
いったい誰か?探してみると「ああ、我が心であった!」ということです。
この私の心が迷いの世界を自ら作り出し縁にしたがって、環境に振り回されて
外の世界を作り出しているのです。
この一念の心が一刹那の間に浄土を作り出し、地獄を作り出す。いろいろな
外の世界を作り出して、そこに自由に出入りしながらも、本来、そのような世界は
実体としてあるものではありません。
わが心の迷い、変化、執着によって映画の映像の如く見えているのにすぎないのです。
そして、ただ、そのように付けた名前があるばかりで本来は、実体などないのです。
言わんとするところは、不生不滅の仏心一つであります。生まれることもなければ
滅することもない、浄でもなければ穢でもない、そして我もない、大虚空ただ一枚の
仏心です。そこにドン坐ってもらいたいと思います。
{平成27年10月25日 入制大攝心4日目 南嶺老師 臨済録提唱より}