一日一語 ⑬ ~攝心提唱編~
<石蕗 (つわぶき)>
数年前、京都の東本願寺に立ち寄った時に「今、いのちがあなたを生きている」
という言葉が書かれていました。
「いのちがあなたを生きてる」一見、わかりにくい言葉ですので説明をします。
私たちは、それぞれ、別に、個々にいのちを持って生きている、私がこのいのちを
持って生きていると思い込んでいます。
しかし、本当は、この真逆であって、たった一つの大いなるいのち、巨大なる
無限なるいのち、私だあなただという区別などない大いなるいのちが私となって
私の体にいただいてこうして生きているのです。大いなるいのちが私に現れて
いるのです。
このたった一つの大いなるいのちのことを浄土宗では、阿弥陀如来と呼んでいる。
「いのちがあなたを生きてる」という言葉は、阿弥陀様のいのちがあなた自身を
生かしているということを言わんとしているのでしょう。
浄土宗というと我々、臨済宗とは真逆と思われるかもしれませんが、
私たちが「無依の真人」と呼ぶものも阿弥陀様ももとは同じものであります。
無依の真人と呼ぼうが阿弥陀様と呼ぼうが大いなるいのちがあなたを生きている
ということは同じ道理です。
無依の真人は、目で見て、耳で聞いて、鼻でにおいをかぐなど様々な状況に
乗じて現れます。仏を求めるものには、清らかな仏の姿となって現れ、ただ
救いを求める人には、観音様や地蔵さんとなって慈悲の姿を現します。
その姿・形は、千差万別ですが、そのもとは一つ、大いなるいのちなのです。
我々、禅宗では、その大いなるいのちを無依の真人と言ったり、本来の面目と
いったり、あるいは、主人公、庭前の柏樹子と言い、浄土宗では、それを
阿弥陀様と呼んでいます。
様々な名前で呼んではいますが、そのもとは一つです。その大いなるいのちが
私たちの心の中で働いていることをしっかりと見届けることが修行の第一歩と
なるのです。
{平成27年10月24日 入制大攝心3日目 南嶺老師 臨済録提唱より}