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臨済宗大本山 円覚寺

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2015.10.27

一日一語 ⑯ ~攝心提唱編~

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<昨晩の月。今夜が満月です。>

 臨済録に「 仏と祖師とはこれ無事の人なり」という言葉があります。

臨済禅師は、「無事」という言葉を「もう外に何も求める必要がない」という

意味で説かれています。ですから、「無事の人」とは、外に求めるものは

何もないとわかった人を言います。

 自分の内に素晴らしい宝の珠が備わっていると気が付けば、もう外に求める

必要はありません。

 貪瞋痴、むさぼり、いかり、おろかさは、迷いの根本です。戒律を主に説く

宗派は、人の命を殺めてはいけない、ものを盗ってはいけない、腹を立てては

いけないなど、あれをやるな、これをやるなと説きます。

 しかし、私たち、禅の立場から言えば、無事に気が付いたなら、つまり

自分に素晴らしい宝の珠があると気が付いたなら、もう、むさぼる必要も

なければ、腹を立てることも無くなるとみます。

 むさぼるのは、自分に何か足りないと思い、自分の外に何か素晴らしいものを

求めるからであり、腹を立てたり、憎しみの心を起こすのも自分がどうしようも

なくて、とりとめがつかないからということが多いでしょう。

 むさぼらずに、自分に必要なものだけを必要な分だけいただいていけば

十分だと気が付き、他人のことに腹を立てず、憎しみに心を起こさず

いつも穏やかにニコニコできる人を無事の人と言うのです。

 仏や祖師というのは、私たちとは遠く隔たった特別な存在ではありません。

本来持って生まれてきた、自分の中にある素晴らしい宝の珠に気が付いて

もう外に求めることがなく、腹を立てることもない穏やかな人をいうのです。

 私たちは、この無事の人になるのが一番の目標です。それを目指して

修行をするのです。その方向性を誤らないように外に向かうのではなく

内に向かって求めていくことが坐禅の肝心なところであります。

{平成27年10月27日 入制大攝心6日目 南嶺老師 臨済録提唱より}

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