一日一語 ⑯ ~攝心提唱編~
<昨晩の月。今夜が満月です。>
臨済録に「 仏と祖師とはこれ無事の人なり」という言葉があります。
臨済禅師は、「無事」という言葉を「もう外に何も求める必要がない」という
意味で説かれています。ですから、「無事の人」とは、外に求めるものは
何もないとわかった人を言います。
自分の内に素晴らしい宝の珠が備わっていると気が付けば、もう外に求める
必要はありません。
貪瞋痴、むさぼり、いかり、おろかさは、迷いの根本です。戒律を主に説く
宗派は、人の命を殺めてはいけない、ものを盗ってはいけない、腹を立てては
いけないなど、あれをやるな、これをやるなと説きます。
しかし、私たち、禅の立場から言えば、無事に気が付いたなら、つまり
自分に素晴らしい宝の珠があると気が付いたなら、もう、むさぼる必要も
なければ、腹を立てることも無くなるとみます。
むさぼるのは、自分に何か足りないと思い、自分の外に何か素晴らしいものを
求めるからであり、腹を立てたり、憎しみの心を起こすのも自分がどうしようも
なくて、とりとめがつかないからということが多いでしょう。
むさぼらずに、自分に必要なものだけを必要な分だけいただいていけば
十分だと気が付き、他人のことに腹を立てず、憎しみに心を起こさず
いつも穏やかにニコニコできる人を無事の人と言うのです。
仏や祖師というのは、私たちとは遠く隔たった特別な存在ではありません。
本来持って生まれてきた、自分の中にある素晴らしい宝の珠に気が付いて
もう外に求めることがなく、腹を立てることもない穏やかな人をいうのです。
私たちは、この無事の人になるのが一番の目標です。それを目指して
修行をするのです。その方向性を誤らないように外に向かうのではなく
内に向かって求めていくことが坐禅の肝心なところであります。
{平成27年10月27日 入制大攝心6日目 南嶺老師 臨済録提唱より}