けさ秋や見入る鏡に親の顔
<雨上がり、秋海棠(シュウカイドウ)・黄梅院にて>
横田南嶺老師が、先月の日曜説教会(8月23日)で提唱されたことをまとめて
みました。
俳人・村上鬼城の俳句に「けさ秋や 見入る鏡に 親の顔」というものが
あります。じっと、鏡の中の自分の顔を見ていると、そこに親の面影がある
という意味の俳句です。
親だけではありません、自分の顔の中には自分が会ったことのないご先祖様の
姿、面影も偲ぶことができるのです。先日、法要の為に檀家さんのお宅に訪問して、
その家の居間にかけてあるご先祖の遺影写真を眺めていると今の当主に
そっくりだということに気が付きました。
私の顔、私の顔と思っていても、この顔は、決して自分で拵えたものでは
ありません。これは、ご先祖様から永永と伝えられてきたいのちの結晶で
あります。
「盆参り いのちのリレーに 手を合わす」という俳句があります。
お盆の時期にお墓参りをして、ご先祖様からいのちのバトンを受け継いで
今日まで繋がっている、このリレーに手を合わすということを詠っています。
松原泰道先生が100歳の誕生日を迎えられた朝、ある若い出版社の方が
取材で先生に質問をしました。「100歳を迎えられて、まず、何を思いますか?」
先生は即座に「母のことです」とお答えになりました。そして「自分は3歳の時に
母を亡くしました。自分はもともと体が弱かったが、特別、何か健康法をしてきた訳
ではありません。こんな自分が100歳という長生きができたということは
若くして亡くなった母が自分の寿命を私にくれたんだと思っているんです。
だから、100歳を迎えた朝、真っ先に思ったことは、母に有り難うということでした」
と話されました。
このいのちのリレーというのは、親ばかりではなく、私たちが直接知らない、
親のまた親、またその親と限りなく代々、受け継いできたことです。
その素晴らしいいのちが今ここにこうして生きて働いているわけです。
親のまた親とずっと遡っていけば、もうはかり知れない、もう言葉で
表すことも姿形で表現することもできないもので、それを大いなるいのち、
仏様のいのち、仏そのものという言い方をするのです。
そのような見方をしてみると、私たちが今生きているこのいのちは
親を通していただいた仏様のいのちであります。
私たちの顔を鏡に映してみれは、親の面影ばかりではなく、それこそ
ご先祖様もあり、もっと大事なことは、仏様の顔や面影も本当はそこに
表れているはずです。
(後記)
次回の日曜説教会は、9月13日(日)9:00 場所 大方丈にて
開催されます。どなたでも参加することができます。
皆様のご来山を心よりお待ちしております。