一切唯心造
ー山百合(ヤマユリ) 山内・黄梅院参道にてー
制末大攝心 中日
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
私たちがどのように迷いの世界を転じていくのかを盤珪禅師の言葉を
もとに説明してみたいと思います。
盤珪禅師は「不生の仏心」ということを説かれました。皆、銘々、
親から産みつけてもらっている、生まれ備わっているのは不生の仏心である。
この不生の仏心が備わっていることに気が付かない故にものに迷ってしまう。
この不生の仏心、霊妙不可思議な仏心が自分に備わっていることを知らない、
これを愚かさという。その為に外の世界に迷ってしまう。
盤珪禅師はまた、修行ということは、この自分の体において尊くてけがれのない
仏心がどのようにして迷いを引き起こしていくのかをよく批判をして観るべきだと
お説きになっています。
この本来は仏心である心がどのように迷いの世界となり悟りの世界となり、
浄土となり穢土となるのか?この原因を盤珪禅師は、自分の身の贔屓(ひいき)にある
と言い表しています。いわゆる、依怙贔屓です。外のものよりもこの自分の身を
贔屓する、可愛がる。
しかし、贔屓の根本を見てみるともともと生れついた時は人を憎んだりねたんだり
するなどの悪念は毛筋もなかった。生まれた時は仏心一枚であったのに成長するに
従って悪念がついてきて人々を憎しみねたむ思いが湧いてきて地獄の心を作り出す。
自分を可愛がることから、他人を認めない、他人を気に入らないという思いを
起こし本来持って生まれた尊い仏心を地獄に変えてしまう。
また、人に腹を立てて怒りの心に燃えてしまうのも、この尊い仏心を一瞬のうちに
修羅の道へと変えてしまう。また、あれが欲しい、これが欲しいもっと欲しいという
欲望が私たちに尊い仏心を一瞬にして餓鬼の世界に変えてしまう。
さらに、いつまでも「こんなはずではなかった」と後悔し、「これから
どうなるだろう」とあとでなく思い迷うことで私たちの心に畜生の世界を
作り出してしまう。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道輪廻の世界も本当のところ
皆、私たちの一心がこの世界を作り出しているのです。「一切唯心造」とは
ここの所を言っています。
本来はきれいな心を持って生まれてきたにもかかわらず、外からの縁や
様々な習慣によって尊い仏心を自分で地獄、餓鬼、畜生に変えてしまっている。
盤珪禅師は、この様子をよく観察し分かれば良いと説かれているのです。