迷いと悟りの違い
制末大攝心 2日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
迷いと悟りの違いとは何でしょうか。迷っている人も悟っている人も外から
見たら同じように道を歩いている。悟った人は今こうして歩いているものこそ
仏であると気が付いて喜んで歩いている。一歩一歩を喜びをかみしめて歩きます。
それに対して迷っている人というのは、こうして一生懸命に歩いていけば
そのうちどこかに悟りがあるかしらと思って歩いている。
外から見たら同じように見えますが、その心の有り様によって
迷って歩いているのか、悟って歩いているのかの違いだけの話なのです。
今、こうして歩いているものが仏の命そのものである。
今、こうして一呼吸一呼吸しているものが仏の命そのものである。
今、こうして話を聞いているものこそ仏の命そのものであります。
このように気が付いてそれ以外に自分の外に仏だの悟りだというものを
求めることがないことが大切です。
もし、とりわけ特別なことをして仏に成れると思ったならば、
例えば、念仏をしたら、やがて仏に成れるや、一生懸命写経をしたならば
仏に成れるなどというように、それらはみな、あくまで本心に気が付き
目覚める為の行(ぎょう)であるということを知らねばなりません。
坐禅であろうと写経であろうと念仏であろうとみな本心に目覚める為の
一つの手段であり、それ自体にとらわれてしまっては本末転倒になって
しまいます。
どれだけ長い時間坐ったら仏に成れるとかどれだけお経を書いたらば
仏に成れるとかどれだけ念仏を唱えたならば仏に成れるとかいうように
その行にとらわれて仏を求めたならば、その素晴らしい本来の仏ですら
迷いの張本人となってしまいます。