一大事因縁
半制大攝心 5日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
原始仏典にお釈迦様が説かれた「山上の説法」というものがあります。
「比丘たちよ、一切は燃えている。熾然として燃えている。なんじらは、
このことを知らねばならぬ。・・・眼は燃え、眼の対象は燃えている。
耳は・・・、鼻は・・・、舌は・・・、身は・・・、意は・・・。
それは貪欲(むさぼり)の火によって燃え、瞋恚(いかり)の火によって燃え
愚痴(おろかさ)の火によって燃え、生・老・病・死の焔となって燃え、
愁(うれい)、苦(くるしみ)、悩(なやみ)悶(もだえ)の焔となって
燃えるのである。」
また、原始仏典がもととなりそれより後の時代に成立した大乗経典である
法華経には「三界は安きことなし、猶火宅の如し。衆苦充満して、甚だ畏怖
すべし。常に生老病死の憂患あり。是(かく)の如きの火、熾然として
息(や)まず。如来はすでに、三界の火宅を離れて寂然として閑居し、
林野に安処せり。今、此の三界は、皆我が有なり、其の中の衆生は、
悉く是れ我が子なり、而も今此の処は諸の患難多し、唯我れ一人のみ、
能く救護を為す。」とあります。
お釈迦様が仰せになりたいことは、「三界が燃えているから救わねばならない。
救うということは、その中にいる一人一人がむさぼり、いかり、おろかさの火に
自分が燃えているのだとまず気が付かねばならないということです。
ほとんどの人は自分が燃えていることすら気が付いていない。
それに気が付いたら「三界の火宅を離れて寂然として閑居し林野に安処せり」
です。それが我々のこの坐禅の修行です。しかし、修行をしてそこで終わって
しまってはいけない。苦しんでいる三界を他所に自分だけ逃れて涼しい顔を
していたのでは法華経の教えではありません。
「今、此の三界は、皆我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり」
とあります。三界は「有」である、つまり自分のもの、自分の家である、
その中で衆生は今、火がついて苦しんでいる。のたうち回って苦しんでいる
一人一人が我が子である。それを救ってあげなくてはならない。
法華経の中に「大事因縁」ということが説かれています。
「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと
欲するが故に、世に出現したもう。・・・是れ諸仏は唯一一大事因縁を以ての
故に世に出現したもうとなづく。」
僧堂に長いことゴロゴロとしていて、公案を一通り終わったからといって
大事了畢だとその後をのんびり暮らしておればよいのではない。
むさぼり、いかり、おろかさに人々が燃えているのをほおっておくことが
できますか。今の時代を見て小さいところでは家庭、近所、街、大きいところでは
国と国との間で憎しみ、妬み、いかりの火に燃えているではありませんか。
燃えている人を救うということは、その人に「仏知見を開かしめ清浄ならしむ」
ことに他なりません。一人一人に智慧の眼(まなこ)、仏心の眼を開かしめ
もう外に求めるのをやめて、お互い憎しみに振り回される必要がないという
真理に目覚ましめることです。これが一大事因縁です。
お寺が何やら歌ったり踊ったりなどのイベントをしていて、気を付けなく
てはならないことは、ともに燃えてしまいかねないかということです。
それには、まず、自分自身の仏心の眼がいかなるものかはっきりとさせて
自分だけに終わらずに、三界は火宅の如しですから、まさに燃えている一人一人に
仏知見を開かしめる、それが我々がこの生涯をかけて取り組まなくてはならない
一大事因縁です。