今尋ねているものは何ものか?
ー蔵六庵入口より仏殿をのぞむー
半制大攝心 中日
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
臨済禅師や唐に時代の修行の様子というのは、自分の本心本性を看よという
ことを直接説かれました。時代を経るにつれて、その為にはどうしたら良いのか?
ということで、坐禅や呼吸を調えることや数息観、随息観、公案などが段々と
増えてきました。
しかし、それらが増えてきて、枝葉末節にとらわれて、今度は一番のおおもとである
本心本性をあきらかにすることが疎かになっていやしないかです。
臨済禅師1150年の遠諱が来年に近づいていますが、臨済禅師に対する一番の報恩底は
このおおもとである本心本性に私たちが気が付くことであります。
唐の時代のお話です。大珠慧海禅師が馬祖道一禅師のところに修行に行きました。
馬祖云わく「どこから来たのか?」慧海答えて「大雲寺より来ました」
馬祖云わく「何しに来たのか?」慧海云わく「仏法を求めて来ました。」
すると馬祖は「あなたは素晴らしい宝を持っていながらそれに気が付かずに
いったい、何を求めようというのか?私はあなたに教えるようなものは
何もない。」と言われました。
そう言われても慧海にはさっぱりわからない。そこで「私の中にある宝とは
いったい何ですか?」とお尋ねになりました。
馬祖答えて云わく「今、あなたは私に何でしょうか?と訊いている。
その訊いているものこそ、あなたの素晴らしい宝である。
そこにあらゆる仏法がすべて備わっていて何も欠けるものはない。
そんな素晴らしい宝を持っていながら何を自分の外に向かって求めようというのか?」
そう言われて慧海は「今、尋ねようとしたものは何ものであるか?」と自分の内側に
向かって求めた。それで一変に宝である本心本性に気が付いた。
己の心に三世の諸仏も歴代の祖師もあらゆる仏法もすべてが備わっていて
何も欠けたるものはない。何も外に向かって求める必要はないと、こう気が付いた
のでした。
昔の人の修行はこういうものです。こういう心こそが禅の本質であります。
坐禅をするのも数息観をするのも無字の工夫や公案をするのもみんな己の
本心本性をあきらかにするためです。この訊いているものは何ものか?
この一字をあきらかにする以外にはない。