大海原を観よ
ー仏日庵の白壁を背景にー
半制大攝心 3日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』に「古(いにしえ)の先徳の如きは、皆人を出(い)だす底の路有り」という
言葉があります。この「人を出だす」には、人を迷いの世界から出してあげる、導いて
あげるという意味があります。
様々な方法を用いて迷いの世界から出してあげる一つの方法が我々の坐禅です。
手を組み足を組み腰を立てて呼吸を調え、長く息きを吐く。これらはみなすべて
心の本性本質に気が付かさせる為の道の一つなのです。
心にあれこれと思いが浮かんでくる。多くの人は、その浮かんできた思いが自分自身であると
思い込んでしまっている。そして自分探しなどといって浮かんできた思いを追い求める。
浮かんできた思いの中のどれが本当の自分かと探し求めても、どれをみてもそれは
一つの映像にしかすぎません。その時の状況によって浮かんできた一時の思い
にしか過ぎないのです。
たとえば、それらの思いは、大海原にぽかぽかと浮かんでくる一つ一つの泡のような
もので、それらにいちいちとらわれ引きづりまわされるてはいけません。
私たちの見性・解脱の道は、その泡が浮かんでくるおおもとの大海原を観るところに
あります。
それで坐禅をし、数息観をする。これは頭の中に浮かんでくる様々な思いに自分が
とらわれ引きずりまわされないようにする訓練のようなものです。呼吸を一生懸命数えて
おればいろいろな思いが浮かんできたとしても3~4分と長く続く思いはないのです。
みな一時的で生じては滅していきます。
よく無常という言葉が言われますが、それはさかんだった平家が滅びたとか立派だった建物が
朽ちたというような歴史物語や物の世界や外の世界のことばかりを言っているのはありません。
それでは心の解脱にはつながりません。
この心が無常なのであります。自分の観念、思いがこれが無常なのだと観ていかねば
なりません。ずっと思い続けているような念はありはしないのです。みな浮かんでは
消えていく。この心の流れの上において、浮かんでくる思いは、ただ、生じては滅して
だけのものです。この生じては滅し終わったところにもとの本体である大海原のごとき
本心本性に目覚めたならば、それが涅槃寂静であり、
お釈迦様の教えの根本なのです。
実際に心の細かい変化をじっと見通していくのが修行の本質です。
諸行無常の「行」というのは、単純に物の世界や外の世界と訳していいものではありません。
心の変化も含まれるのです。お互いの心の変化をよく見続けていってこれは一時的で一過性の
映像に過ぎないととらわれないことです。
様々な思い考えというものは、生じては滅っするものに過ぎない。この生滅が終わったところに
大海原のような私たちの本心本性、微動だにしないところに気が付き目覚めるのが涅槃寂静
本当の安らぎなのです。