深いいのちの大本ではみんな一つにつながっている。
ー宗務本所を背景にー
半制大攝心 初日
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
坐禅をするときは、最初、数息観といって自分の呼吸を数えることから始めますが
だからといって、この数を数えることにいつまでも執着してしまってはだめで
随息観といって数すら数えることも忘れて呼吸と一つになっていくことが
肝心です。
よく坐禅をすれば無(む)になると言いますが、これはただ単に何も無くなるわけ
ではなく、むしろ、平等一枚、みんな、区別差別なくなって、一つながり、一枚になった
世界のことを言います。それを無や空(くう)と呼んでいるのです。
みんな平等一つながりの世界に目覚めるのが、昔の人の言葉にある「天地同根 万物一体」と
なるわけです。これをたけのこのたとえでいうと、地上からだけ見れば、長く伸びた竹もあれば
短い竹もあり、その姿は様々だが、地面に目を向けてみれば全部一つにつながり合っているという
ことです。
円覚寺開山・仏光国師の有名な「臨剣の頌(じゅ)」の中に「喜得す、人空法
亦(また)空なることを」という言葉があります。私も剣を突き付けているあなたも
みんな一枚、深いいのちのおおもとではつながっている。だからいくら大刀を振り回した
ところで斬ることはできませによという意味の言葉です。
私たちは、坐禅をして平等一枚の世界を体験して初めて、平等にものを見ることができ
周りのものに対する真の慈悲が出てくるのです。
お釈迦様は、法華経譬喩品第三の中で「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、
悉く是れ我が子なり」と仰せになりました。一枚になったところから見るとこういうものの
見方が出てくるのです。。