今ヨリナキ二
月並大攝心 6日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』に出てくる問答です。
{ある僧が問うた、「仏法ぎりぎり肝要のところを伺いたい。」
師は払子を立てた。僧は「かーつ」と一喝した。師は払子でその僧を打った。}
ー払子(ほっす) もともとインドでは蚊や虻を払うのに用いていたー
臨済禅師の一喝や何気ない払子を立てるはたらきの中に仏法の大意が見事に
活きています。掃除をしているとき、草を取っているときなど
何気ない日常の動作の一つ一つに仏法の教えが余すところ無く表れています。
そういうことを頭で考えるのではなくしてピタッと一つになっていく。
というところが臨済禅師の教えの要です。
昨日、『臨済録』を貫く教えを四つにまとめてお話しました。
一、他所に求めるな。大切なものは自分の外にあるのでない。
二、自らを信じよ。大切なものはこの身に全部備わっている。
三、自ら仏であると気がつけ。
四、そう気がついた人を無事の人という。
それらをさらに一言で言い表したのが喝一喝であり、端的に表現したのが
今日の問答の中に出てくる払子を立てることであります。
柳宗悦さんが仏法の極意を三つ上げられています。
一、今ヨリナキ二
二、ココニゾアリニ
三、タダコソヨキニ
今より他はない、昨日の過ぎたことにはとらわれない。仏法は今ここにある。
阿弥陀様はどこにいるのか?今ここに阿弥陀様がはたらいている。天地一杯の
いのちはどこにあるのか?今、ここにはたらいている。臨済禅師が払子を立てる
のはここを表しています。
それを体得するにはどうしたらよいのか?その答えが「タダコソヨキニ」です。
念仏を唱えるのであれば、ただ唱える。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と
ただ唱える。われわれ禅宗であるならば、ただ坐る。ただ、呼吸をする。
ただ、息を吸い息を吐く。ただ、大地のどん底から息を吸い上げるつもりで吸い込んで
今度は、天地一杯にただ吐き出していく。ただ、天地一杯に成り切っていくばかりである。
ただ今より他にない、ここにある、ただ行じるばかりである。そこに生きた仏法の
はたらきがある。それを表したのが払子を立てるはたらきに他なりません。