臨済の三句、三玄三要
月並大攝心 最終日
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』に三句、三玄三要とあります。これを穿鑿をするときりがない
のですが、私なりに味わってみたことをお話します。
まずは、臨済の三句
第一句は、もう理論の隙間も入らないところ、それが喝一喝、棒でぴしゃっとたたく
払子を立てる。うんともすんとも言う隙間がない。それではっと気がついた人は仏祖と同じ。
第二句は迷いを断ち切るはたらき。喝や一棒、それだけではなかなか気づかないから、
趙州の無のように「ムー」とやって迷いを断ち切る。麻三斤や隻手に成り切るのも迷いを
断ち切るため。そうして気がついた人は立派な指導者になれる。
第三句は、いろいろなたとえ話、解釈、説明をする。五蘊皆空とは何ぞやとか
一切は無常であるとか一一説明をしてようやくわかるようではしょうがない。
次に三要ですが
第一句は、真仏・真清浄。心の本体がきよらかで無一物であると気がつく世界です。
第二句は、真法。心の光、仏心・仏性が燦然と光り輝いている世界。
第三句は、真道。処々無碍の光。その時その場で滞りなくはたらくことのできる智慧です。
われわれの修行でいえば、第一句は、無字一枚になりきる。心の中がからっぽ、一点の自我の
かけらもない世界です。心清浄の極みを体得する。
そうしてみると第二句の真光明、万事が光の中にあり何とも周りが光り輝いて見え、
何を見ても何を聞いても有り難くなる。ごはんを見たらご飯が有り難く、お茶を飲んだら
お茶が有り難く思うようになる。
そういう心境になれば、第三句、現実にはたらいていって、どんな人やどんな物事に応対しても、
穏やかで和やかで、ひっかかることなくとえらわれることなく慈悲の光を持って接していくことができる。
私たちの禅の修行はというと、最初、無になり、そして万事有り難く思い、最後は何に対しても
穏やかに和やかに接していくという順にあるのですが、私は、その順は特にこだわらずにどこから
入っても良いと思います。
何も見ても聞いても有り難い気持ちから入って、そして、心の本体、無一物に気がつき
最後はいろいろな人に和やかに慈悲心を持って接していくのでもよいですし、あるいは
現実の様々な人と滞りなく、とらわれなく、ひっかかることなく穏やかにニコニコと
接していくことから入って、万事が有り難いと気がつき、そして心の本体は無一物であったと
気がつくこともあると思います。
この三句、三玄門、三要の三つはもともと一つであって、どこから入っても皆仏様の姿に
他なりません。
ただ、私たちがこうして修行するからには、真仏の本体をまず体得することがやはり近道です。
真の仏とは、お互いの心において、全く交じり気のない無一物の極みに達した所です。
それを体得するしていただきたいと思います。