天地一枚
月並大攝心 5日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
臨済禅師の教えを要約すれば、次のようになります。
一、もう外に向かって求めるな。
二、自らを信ぜよ。素晴らしいものは自らの内にある
三、あなた自身こそが仏に他ならない
四、そのように気がついた人が無事の人である。
何かを得ようとしているうちは、真の安心、安らぎ、無事は得られない。
なんとはなれば、満足を得ようとあくせくしている自己自身が何とも
不確かな、無常、無我、早晩死を迎えるものにすぎないからです。
真の喜び真の安心は、自分とこの世界、天地宇宙が一枚になったところです。
一枚になるというのは間違いで、もともと一枚であった、最初から一枚であります。
私たちは自我意識を起こして自分は世界と別々だと色づけ、考えて迷いを生じます。
天地一枚ということを体得するには、頭であれこれと分け隔て考えるとますます
行き詰まってしまう。
ですから臨済禅師は「外に向かって求めるのを止めよ」と言っている。外に向かって
頭で考えるのを止めて、下っ腹、丹田に自分の中心があると思って、呼吸をするときは
丹田に気が充実するようにやる。
そうすると自分と大地とが一体となる。大地よりまるで木が生えているように、
この自分が生じている、大地と地続き一枚であるとおなかに力を込めて体感をする。
それが天地一枚のいのちであります。その天地一枚のいのちのことを端的に表そうと
したのが喝一喝です。もう外に向かって求めるな。自らを信ぜよ。素晴らしいものは自らの内にある。
あなた自身こそが仏に他ならない。そのように気がついた人が無事の人であるといことを
一言でまとめたものがこの喝一喝なのです。天地一枚のじこであることを一文字で
表現したのが趙州の無です。
{吐けば天 吸えば大地と一如なり かくてこの身は 天地一枚}
吸うときは大地の底から息を吸い上げるがごとく大地と一体。
吐くときは天一杯に広がっていき天と一つになる。そういう気持ちで
丹田呼吸を繰り返していけば、かくてこの身は天地一枚であります。
この天地一枚になっていれば賓主歴然です。賓の立場になっても
天地一枚、主の立場になっても天地一枚、表舞台で活躍しても裏方に徹して
かくれていてもそのまま天地一枚、元気なときも病気の時も、得意の時も
失意落胆しているときも天地一枚、そこまで納得してこそはじめて
賓主歴然が言えるのです。