喝一喝の示すもの
月並大攝心中日
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』に次のような問答があります。
{ ある僧が臨済禅師に問いました。「仏法ぎりぎり肝要のところは何ですか?」
臨済禅師はすかさず「かーつ」と一喝した。}
質問した僧というのは、仏教学で学ぶべきことを学び尽くした上で
この問いを発しています。それに対する臨済禅師は、もうこれ以上言葉で
示すことのできないところを一喝で示しています。これを言葉で表現しようと
してしまえば、かえって相手を迷わすことになってします。
「指月」というたとえがあります。あらゆる仏教の教えはお月様を指す
指のようなもの。ところが私たちは指がさしている月(悟り)を見ようとせずに
指(教え)にとらわれてしまう。
お釈迦様の悟りは、今日のような広い青空のようなものとよくたとえられます。
虚空・大空、天気は、時々刻々移り変わっていく。一日として同じ状態であることは
ない。だから法は無常、つまりいつ生まれるともいつ滅するともわからない、
不生不滅と説くことができます。
また、虚空・大空はどこかへ去ってしまうこともどこかから来ることもないから
不去不来という言葉で表現できます。あるいは、虚空・大空はずっと永遠に生き通しに
生きている、永遠のいのちであるとも説くことができます。
さらにこの虚空・大空は太陽の光と空気と相まって私たちを育み生かしてくれる
大きな慈悲のはたらきと説くこともあります。
しかし、どのこと一つとってもその言葉だけをみていたのでは、いつまでたっても
虚空・大空そのものはわからない。だから、もう言葉で穿鑿することを捨てて
直にこの虚空・大空を見なければなりません。
直接この大虚空と一枚、一体になっていく。なれというよりも、もともと
大宇宙、大虚空と一枚であります。
その様子を示したのが臨済禅師の喝一喝です。天地一枚の一喝、いのちです。
大空も譬喩にすぎません。大空よりも広く高く大宇宙にいっぱい充満している
それが喝一喝です。
大虚空、大宇宙、天地一枚のいのち、不生不滅の仏心、そのものをこれ以上なく
直接表現したものが臨済禅師のこの喝一喝なのです。