この只今に安住する
入制大攝心 最終日
ーサツキー
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
朝比奈宗源老師の言葉があります。「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。
これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に
信じ切らねば井戸は掘れぬ。掘れば出ると思うから骨も折れる。だから我々の修行もそれと
同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」
人はみな仏心を持っている。これはお釈迦様が難行苦行の末にお悟りになられたことです。
修行をしてそれをはっきりさせるのが大事なところであります。
お釈迦様も悟り、代々の祖師方もはっきり「人はみな仏心を持っている」と言っています。
ですから、まずは「この私にも仏心、仏性が備わっている」と信じ切ることが大切です。
仏とはどこにいるのか?臨済禅師は「今こうして生きて、はたらいているものを信じろ」と
仰せになっています。今そこにあなたが坐っていれば、坐っているものが仏です。
今そこで話を聴いていれば、聴いているものが仏です。今そこで歩いていれば、歩いているものが
仏なのです。なるほど「仏とはこれである!」と一念はっきりすることが信であります。
その信さえあれば仏に成ることにこれ以上近づいたことはない。たちまち信じることができたら
大安楽の境地に到ることができます。今こうして話を聴いている、今こうして足が痛い、
今、こうして風を感じている、「なるほど仏とはここにおったわい!」と気がつくはずです。
我々は誰もがお釈迦様とも阿弥陀様とも少しも異なることのない仏心を持っています。
しかし、この尊い仏心を持ちながら、我々は、自分で凡夫、無知蒙昧のものに成り下がり、
そして何ものかを外に求めてしまっている。経典の言葉、偉い人の教え、仏道・・・と
いろいろなものをたよりとしてそれにとえらわれている。それは誠に残念で不甲斐ないことです。
そこで臨済禅師の「そんなことしていて埒があくか!」と喝一喝が出るわけです。
各々の仏心に目覚めろという痛烈な手段が臨済の喝であり徳山和尚の棒であります。
「束縛を離れろ、外に向かって求めるな、自己の仏心を信じ切れ」です。
只今(だだいま)こうして坐っている自分に仏の教えはすでに備わっている。それ以外
ない。外に求める必要はない。この只今に安住する、只今にドン坐るのです。
只今に全部備わっている、こういう大安楽の気持ちになって生きる、それが
臨済禅師の宗旨の根本です。そのことを信じて行じていき、「なるほど!」と
気がついて、さらにそれを人に対して説いていく。これが私たちの宗旨で
なければなりません。