身を殺して以て仁を成す
入制大攝心 6日目
ー雪ノ下ー
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
自分の心の本心、本性を明らかにする、それが修行の眼目です。
ところが、私たちの心には五蓋(ごがい)といって、本心に余計なものが
覆い被さっている。
昔から「坐禅をするのは五蓋を除くなり」と言います。五蓋とは、
一、貪欲(とんよく) – おなかがへったら少しでも食べたい。少しでも寝たい、休みたい
二、瞋恚(しんに) – いかり、腹立ち
三、惛沈睡眠(こんちんすいみん) – 心が疲れたて、沈んできて、ぼやっとしたり、とろーんする
四、掉挙悪作(じょうこおさ) – 心がそわそわ、ふらふらして落ち着かない
五、疑(ぎ) – こんなことして何になるにかしらという疑い。
です。それらは決してあなたの本心ではありません。それは本心を妨げている妄念、妄想です。
さて、「己こそ己のよるべ」「各々が主人公である」という言葉や、臨済禅師の
「随処(ずいしょ)に主と作(な)る」とう言葉も、自分自身の主体性をはっきり言っています。
これをはき違えて、自分の我が儘勝手をすることが主となるということでは決してありません。
修行に嫌気がさしてしまうような気持ちに覆われたとしても、そんなふわふわした気持ちが
あなたの本心ではない。それは五蓋の一つに過ぎないのです。
もし、自己の本心を見ようと思うならば、まず、この五蓋を取り除かなくてはならない。
そして本心に目覚めて正しい智慧を持たなければ、正しい判断はできない。
坐禅もろくに組めない。腰骨一つろくに立てらえない。呼吸一つ定まらないような
状態で何の判断ができますか。
『論語』に「身を殺して以て仁を成す」とあります。あまり、人にこういう言葉を勧めることは
憚れるものですが、時には自分ばかりの都合を考えることなく、どうあるべきか?を考えなければ
ならないと思います。
恩に報いるというと古いことと思われるかもしれない。しかし、自分の行いによって
せめて両親や師匠に迷惑が掛かることだけは、慎まなければならない。私も自分のことで
師匠の名前に傷がつくことだけは避けなければならないと思っていたものです。
恩に報いるというと容易なことではないが、せめて、親や師匠に迷惑をかける、傷をつける、
これだけは守らなければならないことです。
自分が辛いこと、苦しいことは、少々、耐えて「身を殺して以て仁を成す」です。