決して離れることはない
ー円覚寺・涅槃図ー
横田南嶺老師が日曜説教会(平成27年2月8日)で提唱されたことをまとめてみました。
涅槃図には、お釈迦様の後継者と期待されていたが、お釈迦様よりも先にお亡くなりに
なった舎利弗と目連の2人の姿も描かれています。これからも、涅槃図は、単に
お釈迦様がお亡くなりになった時の様子を忠実に描写したのではないことがわかります。
涅槃図というのは、お釈迦様の悟りの世界、仏心の世界をこの絵で表しているのでは
ないでしょうか。涅槃とは、煩悩の火を吹き消しお悟りの世界へ入ることを言います。
舎利弗も目連もお釈迦様よりも先になくなったように思われるけれど、しかし、
そうではなくて、ずっと変わることなくお釈迦様の側にお仕えしていたんだという
仏心の世界が涅槃図なのではないでしょうか。
涅槃図には、お釈迦様が生後すぐに亡くなったお母様の姿も描かれています。これも
お母様が決して死んでなくなったのではなく、ずっと変わることなく天上からお釈迦様を
見守り続けているという世界を表しているのではないかとこの頃思うようになりました。
お釈迦様が亡くなるのを嘆き悲しむ弟子達に、お釈迦様は語られました。
「人は月を見る。その月が隠れれば、人は月が沈んだという。月が山に上ってくれば
月が出たという。しかし、月は常にあって変わることはない。こちらから見えているか
見えていないかの違いである。月そのものは生まれもしなければ滅しもしない。
仏もそうである。人々が亡くなったように見えるかもしれないが、それは一時的に
姿、形が見えなくなった月と同じです。決してなくなったわけではありません。
月の光はあらゆるところに表れる。どんな街にもどんな山にも小さな池の水、
井戸の水、そして草木の葉に宿る一つ一つの露にいたるまで表れます。
仏も同じようにどんなところにも表れます。こちらから姿・形が見えないからと
いって決してなくなったのではない、どこにいても常にともにいるのです。」
涅槃図に舎利弗や目連、そしてお母様が描かれているのはそのことを表して
いるのではないかと思うのです。
また、お釈迦様がお亡くなりになるのをことさらに嘆き悲しむ弟子の中には
お釈迦様の実子である羅睺羅尊者がいました。羅睺羅は実の父がお亡くなるのを
側で見ていることに耐えられずに、いったんは、森の木陰に行き一人、さめざめと
泣いていましたが、明日の朝にはもうお釈迦様のお姿は拝見することができないと
わかると思い直してお釈迦様の側へ行きました。
その羅睺羅にお釈迦様は語りかけます。
「羅睺羅よ、嘆き悲しむことはない。あなたは人の子どもとして為すべきことを
よく為してくれた。私も人の親としてあなたに対して為すべきことをなした。
お互い、後悔、悔いることはない。今、あなたは私が涅槃に入ろうとするのを見て
悲しんでいるけれど、今まで、こうして肉体があり生きている間は、あなたと
いっしょにいることもあれば離れていることもあった。むしろ、離れていることの
ほうが多かった。しかし、私が涅槃に入ったら、あなたとはいつも同じところいて
もう、永遠に離ればなれになることはない。だから、羅睺羅よ、決して悲しんでは
いけない。」
この話は、現代の私たちとは関係ない、紀元前の遠い昔の話でもなければ
お釈迦様のように修行をした人だからこそ「離ればなれにならない」という
特別な話でも決してありません。
お釈迦様は、誰もが例外なく、仏心を持っていると悟られました。
今に生きる私も同じ仏心の中にいるのです。お釈迦様も羅睺羅も私たちの
ご先祖も、先になくなった親、兄弟もみんな、今日、只今、私たちといっしょに
仏心の中に生きているのです。
そういう視点でもう一度、涅槃図を見てみると、なるほど、この絵はお釈迦様の
お悟りの心、仏心の世界を表しているとよくわかります。
涅槃は、煩悩の火を吹き消すという意味もありますが、「涅槃経」には
「涅槃は大慈悲である」という言葉があります。大慈悲心を持ってあらゆる
ものにあわれみやいくつしみの心で接する。これが真の涅槃であると言われます。
仏心は大慈悲心である。お互いの本心はみな仏心であり、仏心とは大慈悲心に
他なりません。大慈悲心とは一切を許し、いくつしみ、あわれむ心です。
あらゆることを包み込むお悟りの世界が仏心です。だから、どんな生き方を
しようとどんな死に方をしようと仏心を離れることはない。仏心の世界では
すべてのものは許し合って常にともにいるのです。決して離れることはないのです。