自我意識
制末大攝心 6日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
この一念を起こせば、自分と他人が分かれてしまう。一念を起こすことで
自己と世界とが対立しへだたりができてしまう。一念を起こそうが起こすまいが
私たち一人一人は、生まれてきた様子を冷静に思えば、この世界の一部分です。
大自然の一部分として、大自然の働きとして生まれてきているにすぎない。
生まれてきた様子において自我意識が働いたでしょうか?
「よーし!そろそろ生まれよう!」とか「よーし!この日に生まれよう!」と
思って生まれて来た人は誰もいないはずです。
自我意識が芽生えることは、「ものごごろがつく」と言います。いつのころからか
この手足を自分で動かそうとすると自分の思いとおりに動く。「あれ欲しい!」と
思って自分でものをつかむ。そんなことを繰り返しているうちに「これが自分だ!」と
思うようになり、自分がつかんだものが「自分のものだ!」とするようになる。
これが「自分である!」と繰り返していき、大きくなると自分と他人というふうに
分けるようになる。また、子どもの頃から「自分のことはきちんと自分でやりなさい!」
としつけられる。そうすると段々と自我意識が高まっていく。
自我意識そのものは、生きていく上では、必要不可欠で悪いものでは決してなく、
大自然の働きで芽生えてくるものです。いかんせん、自我意識が過剰に働くことに
よって、「これは私のもの!」と主張をしあってお互いを傷つけててしまう。
確かにいろいろなことを思い考えるから、こうして生きていくことができ、
坐禅をしたり、お寺を建てたり、それぞれがお仕事をしたりすることができる。
念が、決して、すべて悪いわけではありませんが、人間の悩み、苦しみも
同じ念、思いです。
同じ水でもお茶を入れて飲むこともできれば、その一方で、相手にぶっかければ
けんかのもととなります。水は治めることができないと氾濫したり、山崩れや
家を流したりして人を殺してしまう。ですが、水が悪いわけではありません。
その水をどのように調えて使えるようにするかが問題です。
念も同じです。ただ、一念に執着してしまうと周りが見えていない、
我と世界と別のものというへだてたものになってしまう。
かなちゃん