仏心は大慈悲心
制末大攝心 5日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
白隠禅師の師匠である正受老人というと、正念工夫相続、邪念を交えない、
思慮・分別を交えない、妄想を断ち切り、一念も交えないという峻厳な人と
して知られています。しかし、その一方で正受老人は、母親に孝行をし、
幼い子どもを亡くした親の悲しみをを我が悲しみとする詩を残すなど
慈悲心の深さをうかがえます。
坐禅をして無(む)になるということは決して冷徹な人間になるわけではない。
本当は坐禅をすればするほど、一生懸命に修行をすればするほど、
親を大事にしたり、人の悲しみを身近に感じたりと、慈悲心が深くなってくる。
そうでなければならない。
ところが、往々にして、一生懸命、坐禅をする人に限って、わがままになって
修行をやればやるほど、わがまま、暴走してしまう人がいます。
自分だけ一生懸命やっている気になって、端から見ればはた迷惑、
周りが全くわかっていない人が多い。
ではどうしたら良いか?
それは、本当に無(む)になるという心境にいっていないから、わがままになってしまう。
無になるということは慈悲心とどうつながるか?仏心は大慈悲心であるということが
どうつながるか?です。
最近、京都の相国寺に参禅していた片岡仁志居士の本を読み、なるほどうまいこと
説明なさると感心させられました。
無になるということはみなと我と一つに見ること。みなと我と一つながりに見えてくる。
人の悲しみが、正受老人でいえば、子どもを亡くした親の悲しみが我が悲しみとして
表れてくる。他人事ではない。他人が悲しんでいるのを見て同情をするというそんな
次元のことではない。一つになっていく。いっしょになって嘆き悲しみ涙を流す様子です。
これこそ、本心・本性の表れ、正念の表れに他ならない。正念工夫相続三昧とは
自分だけが難しい顔をして坐禅をし、周りに迷惑がかかろうが周りが何をしていようが
何ら無頓着になることでは決してありません。これでは、迷いのさしたるものです。
本当に無になればすべてのものは己と一つであると見えてくる。これは同情や
感情移入といったものを越えています。
無の体験からあらゆるものと私とは本質的につながり合って一つになっていると
気づくのです。それが慈悲、慈愛として表れてくる。仏心は大慈悲であるとして
表れくるのです。