この心は辺際なき虚空のごとし
制末大攝心 中日
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
弘法大師に「文殊の利剣は諸戯(しょけ)を絶つ」という言葉があります。
文殊菩薩は鋭い刀を持ってもろもろの戯論、もろもろの執着、もろもろの煩悩を断つと
いう意味です。禅宗の中興の祖、五祖法演禅師も「趙州の露刃剣」とうたわれています。
一念が生じたなら、もう真っ二つに断ち切る利剣です。
「念の起こるはこれ病、つがざるはこれ薬」と言います。一念が生じるから迷いとなり
その一念を引きずってしまうから、迷いがどんどん大きくなってしまう。
この自我意識の連鎖を断ち切る、これが坐禅の要です。
そして自我意識の連鎖を断ち切っていけば、「これが自分の体だ」とか「これが自分である」
という意識分別はとけてなくなってしまう。そうすると「心は虚空の辺際なきが如く」となる。
この広い大空(大虚空)には、なんらきわみもなく、へだてもなく、つぎめもない。
みんな平等一枚にとけあったところとなる。これが仏心の世界です。
みんなが一枚平等になり、大きな慈悲の中に包まれた様子です。坐禅の修行というのは
「この心は辺際なき虚空の如くである」と体得することです。
その為に文殊の利剣であり、趙州の露刃剣であります。
刀を大上段に振りかざして自分の心をかっと見据えて、一念を起こしたら叩き斬るという
気合いを持って坐禅をするのです。
ネコがネズミをとらえるがごとく、かっと目を見開いて一瞬の隙も見せない。
ネズミがちょっとでも動くものならかみ殺すという気迫を持って坐禅をやらなければ
どうしても、己の煩悩、妄想に引きづり回されてしまう。
サムライが真剣をといて相手と斬り合うがごとく、一瞬でも油断をしたなら一刀両断に
なってしまう。それくらいの緊張感を持って自分の一呼吸一呼吸を貫いていく。
煩悩、妄想に引きづり回されながら、口先だけ、鼻先だけでいくら長時間坐禅をしようとも
それでは埒があきません。