自己否定のきわみに
今日は、円覚寺僧堂は雪安居(10月~1月の修行期間)の講了(講義の最終日)でした。
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
白隠禅師とその師匠である正受老人とのお話です。まだ、修行中の白隠が初めて
正受老人に相見し、投宿を許された矢先、正受老人は白隠に「風呂をわかせ」と
命じました。風呂を沸かすことは、昔はたいへんな作業です。まず、正受庵近くの川から
水をくみ上げ、崖の上にある庵まで運び、風呂桶に水をはる。そこから木ぎれを拾い集めて
お湯を沸かせるというたいへん労力のいることです。
白隠は、ようやく苦労して、お風呂が沸くと正受老人に「お風呂が沸きました、
どうぞ」というと、正受老人は手で湯加減をみて「熱い!こんな風呂に入れるか!」と
叱りつけ風呂の栓を抜いてお湯を全部流してしまいました。そして「どこで修行を
してきたんだ!」と罵声を浴びせました。
白隠はそういわれてもめげずに、もう一度川から水を汲んできて風呂を沸かし
さっきよりぬるめにしたことを確かめて「どうぞ、お入りください。」と言いました。
正受老人、今度は「ぬるい!こんなぬるい風呂に入れるか!」と、また、風呂の栓を
抜き、苦労して涌かし直したお湯を全部流してしまう。
白隠はそれでもあきらめない、3回目に川から水をくみ上げ、運び、お湯を沸かす。
3回目にして、ようやく許してもらえました。
別段、お湯を全部抜かなくても、熱ければ水をいれて冷まし、ぬるければ火を加えれば
良いと思うかもしれないが、どうして、正受老人はこういう仕打ちを白隠になさったの
でしょうか?
正受老人の行為をいじわるととるか、はたまた、親切と受け止めるか?です。
禅の修行は、これくらいのことをされても何なく平気な顔で耐え忍ぶことが
できなければ、とうてい、成し遂げられるものではありません。
その後、白隠は正受老人のもとで鍛え上げられ認められてから、再び行脚に
出ると二度と正受庵を訪ねることがありませんでした。よほど、骨身にしみて
鍛え抜かれたのでしょう。
しかし、正受老人が遷化されてから、だいぶ経って、白隠42歳、
ある夜一人で法華経譬喩品を読んでいた時にそこで初めて「正受老人の
お心がわかった!」という体験をされました。そういうものであります。
厳しい自己否定のきわみにこそあたたかい慈悲の心があふれてくる。
正受老人は、いっけん、白隠に対して手厳しいご指導をされたのは
白隠の将来の大成を願う慈悲心に他なりません。
ー提唱台上の横田南嶺老師ー
ー雪安居講了の偈(げ)ー