その人が光ってくる
臘八大攝心 6日目
横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
滋賀県彦根にある摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。
その昔、また諸国を修行して歩いていた大師が、挫折しそうになって、この峠にさしかかったとき、
白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、
斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと気がついた大師は、自分の修行の未熟さを恥じ、
さらに修行に励んだというものです。
後に再びその場所を訪れた大師が詠んだ歌が
「道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし 人もこそあれ」
です。
我々の修行もこうして円覚寺開山・無学祖元禅師の語録を読んでいると、なお、この上があるか
なお、この上があるかと実感をさせられます。しかし、ただ、呆然と仰ぎ見て立ちすくんでいるのでは
意味がありません。
今、こうして我々がやっていることは決して無意味ではありません。
坂村真民先生に「鈍刀を磨く」という詩があります。
{鈍刀をいくら磨いても 無駄なことだというが
何もそんなことばに 耳を借す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが 磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を 光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ}
我々の修行もかくのごとくです。自分らのようなものが修行をしたって仏光国師や祖師方には
到底及ぶまいが、せっせと磨けば、刀は光らない合かもしれないが磨く本人を光るものにしてくれる。
公案(禅の問題)もわかる、わからないにあまりとらわれてはいけない。それよりも一生懸命
一呼吸、一呼吸の無字に没頭する。わかる、わからないではなく、一呼吸一呼吸、一生懸命に
拈提していけば、その人が変わってくる、その人が光ってきます。
だからせっせと磨くのです。
<後記>
本日午後一時から円覚寺の方丈で、臨済会主催による「禅をならう会」が催されまして、
南嶺老師が仏光録を提唱してくださいました。
お寒い中70名程の方々にご参加いただきました。
ご来場賜りましてありがとうございました。