やわらかなる容顔をもて
-円覚寺 総門-
只今、紅葉がピークを迎えています。皆様のご来山をお待ちしております
月並大攝心 5日目
横田南嶺老師が僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
坐禅は、正念工夫、無字三昧の修行ですが、そこに何の感情がないのかというと
決してそうではありません。むしろ、一生懸命坐禅をやればやるほど、人は様々な
情にたいして細やかに気づくようになります。気がつかないということは、坐禅が
浅いと言わざるを得ません。
また、坐禅というのは基本に忠実です。何年やろうと基本を忠実にやっていく以外に
他はありません。立腰(りつよう)と何度も言っていますが、本当に腰が立っている人は
ほとんどいません。それができるのが千人万人に一人であるくらい、腰をすっと立てることは
難しいものです。だからこそ、常に腰を立てる努力をしなければならない。現状に満足せずに
まだ工夫が足りないと精進をする。
腰を立て、丹田に力を込めてゆっくりと呼吸をすることによって「オレがオレが」という
世の中を自分中心にみている我執・我慢から解放されるはずです。
「自分を無にすることがかくも豊かなものが流れ込んでくるとは」の境界です。
坐禅をして無になることは同時に無限の慈悲の心に満たされることでもあります。
これがなければ本当に坐禅をしたとは言い難い。
本当に自我を死にきって真剣に坐禅をしたからこそ、無限の慈悲があふれ出るのです。
道元禅師は「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」と仰せになって
やわらかなこまやかな心をもって人に接していくのです。慈悲が足りないということは
坐禅が足りない証拠です。大いに骨を折って坐ってもらいたい。腰を立て、丹田に力を込めて
細く息を吐き天地の気を吸い込んで己なきところに取り組んでもらいたい。