無量のいのち 無量の光
-居士林 山門-
紅葉は一気に色づいて、今週から来週にかけてがピークとなるのではないかと思います。
-居士林から仏殿を望む-
月並大攝心 3日目
横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
私たちは、妄念妄想の中に固められてしまっています。自我、自分中心の
狭い見方の中に閉じこめられている。これを突き破って大いなる世界に目覚める
ことができます。その大いなる世界が計り知ることのできない、阿弥陀、無量のいのち
無量の光です。
私たちは本来その光明の中に生きているにもかかわらず、目にみえる様々な姿・形のとらわれ
その姿・形を比べて競争し、そしり、憎しみ、ねたみ合って、自我意識を闘わせて争い、差別
いじめを繰り返している。
本当の救いというのはこの阿弥陀、無量のいのち、無量の光に目覚めることに他ならない。
無量のいのち、生き通しのいのちはいろいろな宗教の教えをみても到りうるところです。
それに目覚めないから、いかり、惜しみ、ねたみなど自分中心の自我の命しか見えていない
のです。仏教で言う、空(くう)や無というのは、このこの小さな自我の命は夢や幻や水に映る
月のように実体がないということです。こんな自我の命を本当のものだとしがみついて争って
いても真の平和、安らぎはいつまで経っても得られることはない。
そんな小さな我に対する執着、とらわれが全部、抜け落ちたところが無量のいのち、
生き通しのいのち、限りない光に満ちあふれた世界です。その永遠のいのちに全身を
捧げて生きることを「南無阿弥陀仏」という言葉で表しているのです。
詩人の坂村真民先生は、一遍上人の志を受け継いでこの無量のいのち、無量の光の世界を
表す詩を作ろうされました。私たちの禅においては、坐禅をして本来の面目を工夫をすることは
この限りないいのちと無量の光に目覚めることに他なりません。そして目覚めることが真の救いと
なるのであります。