坐るということは
-ケヤキ 夕陽を浴びて 黄梅院-
入制大攝心5日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
坐るということは、坐り抜くということは、これほど簡単なようで
難しいことはありません。今、比叡山の十二年籠山行を復興した堀澤祖門さんの
お弟子さんが書かれた本をいただいて読んでいます。比叡山では、千日回峰行は
有名ですが、その他に十二年籠山行という、本当に十二年もの長い間、文字通り、
一度も山を下りない修行を今でも、伝統的にやっていらっしゃる。
今年の8月にその十二年籠山行を満行された堀澤祖門さんにお会いする機会が
ありました。この方は、比叡山きっての「禅定家」といわれて、臨済宗・大徳寺の
臘八大攝心も経験されています。
そのいただいた本の中で、堀澤さんのお弟子さんが初めて入門をしたときに
堀澤さんから言われたことが紹介されています。「坐るということは毎日毎日
命がけで坐ってようやく一歩するものである。1年くらい坐ったところで成果が
でるものではない。それだけ長い年月がかかるのだ。しかも漫然とやっていたのでは
何の効果もえられない。命がけでやって初めて一歩得られるものがある。そういう世界
である。」
なるほど、私たちの禅の修行もその通りです。今、私たちはこうして長い時間坐って
大攝心をやっていますが、一生懸命やっている人と、ただ漫然とやっている人の差は
歴然としています。掛け声、一つをとってみても一生懸命やっている人は、きちっと
肚に力が入ってやっている。
修行というものは、ただ、自分がどう自分でこれでいいというものを納得がいくか
どうかです。1年やそこらで何かを得られる世界ではありません。達磨大師も面壁9年
です。それくらい真剣に求めていくのが私たち坐禅の道であります。