悩むカエルがいたら
シュレーゲルアオガエル 於 妙香池・・・オランダ人のシュレーゲルさんが命名したので
横文字の名前がついていますが、実は日本の固有種です。夏の坐禅には、カエルの合唱がつきものです。
横田南嶺老師が日曜坐禅会(5月14日)で提唱されたことをまとめてみました。
仏様も我々人間もまた動物・植物にいたるまであらゆる命あるものは、
みな同じ一つのこころです。仏様となったからといってこころが立派になる訳ではなく
迷っているからといってこころが減るということもない。
今、この大方丈の裏の池ではカエルたちが鳴いています。私がこうして古い漢文の
語録を講義すると何やら有り難いように思われるかもしれませんが、本当のところは
私がこうしてべらべらとやっているのも、隣の池でカエルがケロケロと鳴いているのも
何も変わることはないのです。
皆さん方は、カエルの声がうるさいと思われるかもしれませんが、池のカエルたちは
隣で人間達が何やらざわざわしているぞ、うるさいぞとは決して思ってはいませんでしょう。
カエルたちは無心に鳴いているだけです。あれはそのまま仏様の姿です。
もし、悩んでいるカエルがいたらどうでしょう?「自分はこれでいいのか?自分の泣き声は
果たしてこれで良いのだろうか?」と悩み苦しんでいるカエルがいたら、皆さんはどう思いますか?
おそらく「そんなことで悩まなくてもあなたは立派なカエルだ、そのままでいい、今鳴いている
通りでいい。」と声を掛けたくなるでしょう。「もっときれいな鳴き方をしたら仏になる」なんて
余計なことを考えないで一生懸命、精一杯鳴いていれば、それで立派なカエルなのです。
それ以上、何を求めるというのですか?
逆にカエルからこちら人間を見たらどうでしょうか?「立派な人間になるにはどうしたらよいか?
どう坐禅をすれば立派な人間になれるか?サトリとはいったいなんであるか?」と考えている人が
いたら、カエルたちはおそらく次のように思うでしょう。「あなたはすでに立派な人間ではないか。
こうして坐禅をしているだけで十分素晴らしいではないか。これ以上何を求めようというのか?」と。
私たちの迷い、悩みというのはおおよそ、そういうことであります。仏様と一切衆生・いのちあるものは、
同じこころを持って生きています。このこころというのは、様々な感情を表す心というよりも今日で
言うところのいのちのことです。いのちと言ってもたかだか数十年で終わる肉体的生命を指すのではなく
もっと根源的ないのちのことです。私たちはこの根源的ないのちをこうして生きているのです。
仏様も私たち人間も花や草木、カエルなどいのちに二つはありません。同じ一つのいのちを生きている。
その一心、こころ一つだけに平等のいのちを生きているであります。
{平成26年5月14日(日) 日曜坐禅会 『伝心法要』提唱より}