機を忘ずる
今日で月並大攝心も最終日です。
甘茶 黄梅院
横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『従容録』に地蔵桂琛(けいちん)和尚の問答があります。
禅のさかんな南方から帰ってきて、「自分は大いに修行をしたんだ」と
得意になっている僧に地蔵和尚が「南方の仏教はこのごろどうだ?」と問いかけました。
その僧は、「禅問答が活発に行われています。」と答えましたが、内心、「あんたのような
百姓の暮らしをしている人にはわかるまい」とさげすんでいました。
そこで地蔵和尚は「田植えをしてお米を育てて、それを収穫して、ご飯をたいてにぎりめしを
作って食べる。いくら禅問答をしていても、この生活には到底及ばないぞ。」と言われました。
そこでその僧は「あたなは百姓の暮らしをしていれば良いかもしれないが、現実の迷っている
人々はどうするのですか、そのまま放っておいて良いというのですか?」と問いました。
そこで地蔵和尚が言われたのは「お前のいうところの迷いの世界というのはいったいどこに
あるのか?理屈ばかり言っていないでいい加減目を覚ませ!」でした。非常に示唆に富んだ
お話であります。
最近、先日下された原発運転差し止め判決が話題になっています。いろいろな見方があり
何が正しいかどうかは難しいところですが、裁判所は「国富とは何か?」について判決文の
終わり部分で触れています。原発を稼働させて経済を活発化させて貿易でもうけていくよりも
本当の国にとっての富とは、豊かな自然・国土とそこに暮らす国民が根を下ろして生活できることで
あるという内容のものでした。
これは先ほど紹介した地蔵和尚のお話に通ずるものがあります。
また、『荘子』の中に「機心胸中に存すれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生(性)
定まらず」とう言葉があります。
機械などの楽で便利なものに頼ってしまうと人は本来持っている素晴らしいこころが
失われしまうという意味です。機械を使ってあれこれ追い求めるよりも緑の大地を耕して
百姓をしながら、あぜ道でにぎりめしを食べる。これを機を忘ずるという。現代において機械を
なくせ、機械に頼るなとはいえませんが、少なくとも機械を離れ、機械を忘ずるこはできるはずです。
坐禅は機を忘ずる端的です。求める心がおさまることが機を忘ずるです。
ともあれ、今我々に求められるのは少なくとも機械に振り回されない、外の情報に
振り回されない何ものかを持つことです。その為にはやはり、腰骨を立てて主体性を立てること。
肝心なものを見失わない為に気海丹田、おなかに力を込めて機を忘ずることが大事であります。