放ち忘れて仏となる
入制大攝心 3日目
ニホンスミレ <居士林>
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
呼吸は本来、生まれたまま、ありのままの呼吸が良い。
ところが、私たちは長い間、不自然な姿勢をして、大自然とともに
生きることから離れて、頭でばかりものを考え、思いを巡らしているために、
呼吸が細く、弱く、浅くなり段々と気が弱くなっている。
それだから、あえておへその下、丹田に力を入れて丹田を気で充たしめて
もう一度、大自然と一枚であったところという本来のところに立ち返るのだ。
まず、腰骨を立てて、それから気海丹田に気を充たしていく。背筋を伸ばして
「上虚下実」、おへその上の力は抜く。この時、どうしても「背筋を伸ばして
きちっと坐れ」と言われると肩に力を入れて胸を張り出して力を入れてしまうが、
これではおへその下、おなかには力が入らない。
いかに上体の力を抜くかということがおなかに力を込める要だ。
ふっと上体の力を抜いた分、おへその下、丹田に力が充ちるのだ。
おへその上、みぞうちあたりの力はふっと抜く、そしておへその下の
丹田はゴム毬のように張り出して、ゆったりと呼吸をする。
この呼吸こそがこの大自然の働き、神と言おうが、仏と言おうが
神仏と一つとなる一番の手がかりとなる。
何もかも忘れてしまって、何もかも放ち忘れて、この呼吸と一つと
なっていく。決して、仏を知ろうとかわかろうとかとらえようと
するのではなく、仏心の中に我を放ち忘れていくのが私たちの修行だ。