随所作主
9月18日(水)
横田南嶺管長が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
臨済録に「仏法は用功の処無し。秖(ただ)、是れ平常無事、 屙屎送尿
(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困じ来たれば即ち臥す」
という言葉があります。
自分で自分の大小便を出すことができる、自分で自分の服を着ることができる、
自分で自分のご飯を食べることができる、そして夜、ぐっすりと寝ることが
できる。これらができれば、人間として本当に幸せなことではないかという意味で
あります。
こういうところに「有り難い」「満足だ」と感じることが人間の根本であり、
何も特別なものを外に求めなくても幸せは身近にあるものです。
「随所に主となれば、立処皆真なり」というのは、どんな場合、いかなる状況
であれ自分の尊さがはっきりとしていれば、どこに行ってもそこが真実であるという
言葉であります。
この場合の「自分の尊さ」とは、何も別段特別な能力があるから尊いのでは
ありません。こうして毎日の暮らしの中で何気なく生きていることが尊いのです。
何気なくご飯を食べて、何気なく大小便をして、何気なく服を着て・・・と
何気なしに生きている。そのことの尊さに気づけば、どこでどんな状況に
なろうともそこが真実であるということなのです。
また「明眼の道流(どうる)の如きは、魔仏倶(とも)に打す」とあります。
これを私たち禅宗の伝統的な解釈では、「明眼の修行者は、何が仏で何が魔であるか
を見分けることができる」と訳しています。
毎日、何気なくご飯を食べて、服を着て、大小便を出して、グッスリと眠る・・・
など、私たちのこのいのちを活き活きとさせるものが「仏」であります。
逆にそれらを妨げるものは「魔」であります。
仏と魔、それをしっかりと見分けていく智慧を身につけることが大切なのです。