大用国師の戒め
6月26日(水) 半制大攝心・最終日
管長様が提唱されたことをまとめてみました。
私たちの修行の眼目は我見、自我を削って無我に徹すること、
これ以外にありません。
明日から大用国師・誠拙禅師の毎歳忌となりますが、その頂相(ちんそう)に
誠拙禅師が弟子に説かれたいくつかの戒めが書かれています。
その一つに「人の過失を見ることなかれ」とあります。人の過ち、ごまかしを
見るなということです。これはお釈迦様以来の教えで「法句経」に「他人の過失を
みることなかれ。他人のしたこと、しなかったことを見るな。ただ、自分のしたことと、
しなかったことだけを見よ」とあります。
人のことをとやかく言うのではなく、ただ、自分がどうであるか?を見ていけ
ということです。これが修行において一番大事なことです。私たちは修行をしながら
ついつい人の観察ばかりをしてしまいかねません。
こういう狭い道場でいっしょに朝から晩まで暮らしていれば気に入らないと思う
人も出てきます。見方を変えれば、そういう中で修行をすることこそ自分の我(が)、
わがままを削り無くしていく最良の場です。
思うようにまかせない状況、気の合わない人、嫌な人というのはかえって修行に
とっては好条件となりうるのです。そういう中で自分の我の強さに改めて気がつかされる
のです。
また、誠拙禅師は「無事にして山を下りることなかれ」つまり、修行に来たからには
これだというものを何か一つでも体得してから帰れと説かれています。
私たちは仏心の光の中におりながら、その光を見ることができないでいます。
この光の中にあるんだと気づくことが大事です。では、そう気づくにはどうしたら
いいか?
「影あり 仰げば 月あり」という言葉がありますが、無我、無、暗さ、闇の世界に
徹してこそ、初めて光に気がつくことができるのです。無の闇の中に徹してこそ
「ああ、光の中にあったんだ!」とわかるのです。
私たちは光の中にいのちをいただいて、この光の中に生かされています。
このこと一つがどんなに尊いことか体得することです。自分自身がその光の
尊さ、有り難さに気づかずしてどうして人に光の中にいることを伝えることが
できましょうか?
<降りしきる雨の中で>