どうにもならないところに
6月21日(金) 半制大攝心・2日目
<萩・黄梅院>
管長様が提唱されたことをまとめてみました。
理論理屈、言葉ではもうどうにもおさまりがつかないような理不尽なこと
は世間でも避けることはできません。なぜ、あんな人があんな目に遭わなければ
ならないのかと思うことも多々あります。そんな時に逃げてばかりいるわけには
いきません。
ある人は、お寺に入ってみたものの、お寺の生活が自分と合わなかったのか
「縁あれば即ち住し、縁なければ即ち去る」という言葉を残して去ろうとしました。
それを聞いて、そのお寺の禅師は「縁あればとどまり、縁なければ努めるんだ」
と仰せになったそうです。
どうにもならないから「はい、さようなら」とやれば、何とも禅宗らしいと
思われるかもしれませんが、どうにもならんところで「縁なければ努めるんだ」
という気持ちで事に臨むことも大事です。
私たちの修行もどうにも行き詰まったところ、どうにもならないところに
入っていって、そこからどうにもならないからやめようとか、どこか他の場所に
行こうというのではなく、強いて言えば、その中に「ひたりきる」、そのどうにも
ならないところに活路を見いだす修行です。
あの白隠禅師でさえ、修行時分に仲間から様々な嫌がらせを受けたという記録が
残っています。しかし、白隠さんはそう言う状況の中で「これではいかん、こんな
状況を何とかしなければ」と努めに努めて、今日に至る禅を再興されました。
ある老師は「名刀正宗は八十六万七千四十たび鍛えに鍛える」と言われました。
何度も何度もたたかれながら、余計なものが飛んで行って鋼(はがね)が鍛えられて
いく。私たちの修行もそうです。
大相撲のぶつかり稽古もそうです。ぶつかっては投げ倒されてを何十、何百、
何千、何万回と繰り返しているうちに知らず知らずのうちに足腰が鍛えられ、
関取としての体と根性が鍛えられていくのです。
そういう心構えで修行に臨んでいただきたいと思います。